(1)「日本神話」の崩壊
新型コロナウイルスの感染拡大によって、長い間、正確にいうと日本統治時代から存在していた台湾における「日本神話」が崩壊しつつある。衛生管理や医療体制、感染症対策など、手本と思っていた日本が、新型コロナウイルスの防疫では、初動で後手に回ったとの失望からだ。
台湾で「神話」となっていたのは、日本統治時代の1898年から1906年までの8年間、台湾総督府民政長官を務めた医師出身の後藤新平の功績だ。後藤は台湾への赴任前、日清戦争が終結した1895年、伝染病が猛威を振るっていた中国から帰還した20万人以上もの日本兵に、陸軍の責任者として数ヵ月で水際検疫する指揮を執り、成功させていた。
台湾の李登輝元総統は2007年に、「後藤新平と私」と題して東京で行った講演の中で「悪疫流行の根絶」を台湾において後藤が残した成果の1つであると讃えた。それ以前は「コレラや赤痢、マラリアなどが蔓延する瘴癘の地」だった台湾だが、後藤がリードした「医療行政の推進や上下水道の整備」が効果を上げたと、高く評価した。
台湾では戦後も、先住民が暮らす山間部を含む小さな集落まで、隈なく保健所(衛生所)が置かれるなど、後藤の「教え」が息づいている。台北の国立台湾博物館には後藤の銅像もあり、李元総統は「台湾の恩人だ」と公言している。
だが、時代は大きく変わった。2020年5月1日現在、日本は全国的に新型肺炎の蔓延による「緊急事態宣言」の最中にあるに対して、台湾は6日連続感染者記録「ゼロ」を達成している。現段階で、台湾は新型コロナウイルスの封じ込めに一定の成果を収めたと言っても過言ではない。
日本も台湾も感染症の水際対策が取り易い「島国」である。それにもかかわらず日本は、なぜ中国人の入国制限を早々に決断できなかったのだろうか。この対応は台湾から見て実に不思議である。
台湾は2月6日から中国人の入国を全面的に禁じ、10日からは台中間の航路を大幅に制限した。このような思い切った水際対策や住民へのマスクの円滑な供給、インターネットを活用した自宅学習などの優れた対応から台湾の蔡英文政権の支持率は急激に上昇した。しかも、衛生行政当局の疫病責任者に対する満足度は前代未聞の8割を超えていた。
一方、この頃の安倍晋三政権の支持率は下落傾向にあった。当時(2月初旬~中旬)、安倍政権は中国の習近平国家主席の国賓来日に固執しているように見えた。だが、日本の世論は感染源と見られる中国に厳しい。安倍政権に対して日本国民は「自国民の健康と安全」よりも「習近平国賓来日」を優先するのか、といった不満を抱いたのではないかと思われる。勿論、安倍首相本人の真意は分からないが、その背後で親中派政治家・外務官僚が跳梁跋扈していたようにも見える。彼らのような中国に幻想を抱く人々の存在によって日本の防疫は失敗したと言ってもいいだろう。
(2)日台の防疫体制の違い
ここでは、日本と台湾のどちらの政治制度が良いかを検討することを目的にはしていない。勿論、日本は議院内閣制、台湾は半大統領制であり、政治文化も異なる。単純比較はできない。
だが、日本の場合は「政治主導」と言っても、その実態は霞が関の「官僚」によってコントロールされている。台湾の場合には蔡英文政権も、馬英九政権も、陳水扁政権も、李登輝政権も「政治家」が中心である。
要するに、台湾と日本の違いは「緊急事態時の意思決定システム」にもあると思う。台湾では緊急時には総統官邸が自らの権能を駆使してトップダウンで次から次へと物事を決める。そのため、仮に間違った対応をしていても、すぐに修正できる。他方、日本では、行政府は緊急時も「平時のシステム」のままで動いており、霞が関任せ、あるいは、具体的な対応は地方自治体に丸投げしているような場面も見られる。
それに、台湾の場合、政権中枢の大臣たちは、それぞれ、その政策分野のエキスパートが就く。例えば中央感染症指揮センターの指揮官を務める衛生福利部(日本の厚生労働省に当たる)の陳時中部長は現役歯科医師で医療行政の専門家である。陳建仁副総統は公衆衛生学の世界的権威で、17年前に台湾でSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行した時は衛生署長として手腕を発揮し、今回も見事な働きぶりを見せた。デジタル担当の唐鳳政務委員は台湾を代表する天才プログラマーで、デジタル技術を使ったマスク配布システムの開発に努めた。
日本では、その得意とする政策分野を考慮せずに、単に当選回数が多いだけの「使えないベテラン国会議員」を専門外の大臣ポストに就ける傾向にある。これでは官僚の操り人形になってしまう。
(3)安倍政権への期待
日本の安倍政権だけが「コロナ危機で支持率低下」という事態を生んだのは残念だった。そんな先進国は他にない。それでも台湾は日本、そして安倍政権に強い期待感を持っている。中国は新型コロナウイルス問題の隙を突くように、日本、台湾、そしてアジア太平洋地域で挑発的な軍事行動を繰り返している。今後、日本と台湾は特に安全保障面で、中国と対峙していくべきかを真剣に考え、協力してかなければならない。
新型コロナウイルス問題をめぐっては、台湾の参加を拒んできたWHO(世界保健機構)に対し、安倍首相が「政治的な立場で排除すれば地域全体の健康維持、感染防止は難しい」と主張し、台湾のWHOへの参加を支持する意向を明らかにした。言うまでもなくWHOの背後では中国が睨みを利かせている。だが、感染や防疫、医療に関する詳細な情報は国際的に共有されなくてはならない。
中国の一方的な主張で東アジアに空白地帯を生むことは許されない。台湾の日本研究者として、台湾のWHOへの加盟の実現に向け、日本、そして安倍政権が運動の先頭に立つことを願っている。