台湾と民主主義、そして日本への愛~李登輝氏の足跡

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顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 台湾の李登輝元総統が亡くなった。97歳、近代の世界史でも特筆される業績を残した巨星の旅立ちだった。私にとっても李登輝氏との接触は忘れられない教訓や敬愛の念を残した。
 李登輝氏の政治指導者としての最大の実績はやはり台湾からアジア、そして全世界に向けての民主主義の実践だと思う。さらにあえて私が一日本人という立場から彼を見上げたときには、彼の日本への愛着や賞賛の一貫した体現が強烈な印象を残している。
 
 「会いにきませんか」という李登輝総統からのメッセージが直接に届いたのは1997年の12月だった。私は産経新聞のワシントン特派員だった。だがその年の夏、香港に2ヵ月ほど滞在し、香港返還という歴史的な出来事の報道にあたった。その間に接触した中国側の関係者たちの取材に基づき、「日中友好という幻想」というタイトルの雑誌論文を書いた。
 李登輝氏はその論文を読んで、筆者の私と話してみたいと思い、当時の側近で私も面識があった彭栄次氏を通じて連絡したのだ、とのことだった。当時の李氏はなにしろ中華民国の現職の総統だった。そんな人物が単独の会見に招いてくれるというだから、もちろんすぐに応じた。
 私にとっての台湾は未知の地だった。まったくの白紙のままワシントンから台北へと飛んだ。李登輝氏は1990年から台湾の総統を務めていた。96年には台湾で初めての完全に民主的でオープンの直接選挙で総統に選ばれた。あくまで「一つの中国」に固執する
 北京政府は台湾独立をも口にする李氏を敵視して、ミサイル発射で威嚇までした。だが李氏は選挙で圧勝した。
 私が台北に出かけたのはその翌年だったのである。
 とにかくびっくりすることばかりだった。
 李登輝総統は本当にうれしそうに私を迎えてくれた。日本式建築の総統府の公務室だった。そしてなによりも完璧な日本語を豊かな語彙と表現でよどみなく話すのだ。当時の私には外国政府の首脳が日本語を日本人とまったく同じように話すこと自体が驚きだった。
 そして李氏は翌日の夕、夫人の曾文恵さんと住む官邸の簡素な応接間に私を招いてくれて、インタビューとなった。言葉はもちろんすべて日本語、なんと3時間余りの語りあいとなった。
 その会見で台湾の現状や将来に関して彼が繰り返し強調したのは民主主義だった。
 「台湾は『住民の自由意思に基づき政治形態を決める』という民主主義の基本こそが不可欠であり、中国との統一も中国が現在の一党独裁から民主主義へと移行しない限り困難だろう」
 「民主主義に関して『アジア的価値観』という言葉でアジア独特の民主主義があるという向きがあるが、ナンセンスだ。民主主義の理念には東も西もなく、普遍性こそが重要なのだ」
 
 李登輝氏は日本についても当時の私が衝撃を受けるような言葉を口にした。
 「私は22歳までは完全な日本人だった」と淡々と述べるのだ。そしてさらに「私は日本的精神を学ぶことで成長してきた」とまで語る。日本的精神とはなにかと問うと、「ウソをつかないこと、他者に誠実に接すること、そして自らを律する精神」などという言葉が返ってくるのだ。
 日本とはそんなよい国だったのか、日本人とはそんなすばらしい民族なのか、といぶかるほどなのだ。
 ふうつならこの種のあまりに手放しの日本礼賛に疑念を抱かされるのだろうが、李登輝氏の言葉にはそんな疑いをすんなりと一掃する独特の重みと自然さがあった。
 当時の私は台湾の実情を知らず、日本の統治への批判も必ず聞くだろうと身構えていたくらいだから、とにかくショックの連続だった。
 そんな李登輝氏は台湾人の夫人とも家庭内では日本語で話すことが多く、夫人をごく自然に日本ふうに「文(ふみ)さん」と呼んでいた。
 李氏が会見の最後にはこんなことを述べたのも忘れられなかった。
 「私は総統の任期が切れる2年半後には引退するつもりだ。後世の歴史には台湾の民主化を進め、台湾の人間を愛した人物と評価されれば幸せだ」
 李登輝総統が台湾の民主化を歴史的に進めたという実績は誰にも否定できない。
 こんな初の出会いの後、私は何度も李登輝氏に会うことがあった。1998年から私が産経新聞の初代の中国総局長として北京に駐在したために台湾への訪問も頻繁となった。
 また李氏が心臓疾患の治療を日本で受けることを希望し、日本の当時の外務省が北京政府の意向を忖度して、それに反対するという騒ぎがあったときも、私は李氏側の動向を直接に取材して報道する機会を得た。
 2001年以降、私がまたワシントン駐在になった時には李登輝夫妻がアメリカ訪問にきてワシントンで再会するということもあった。
 私は李登輝という人物にすっかり魅されていた。その理由をあえて言葉にすれば「李氏の民主主義重視と日本礼賛」ということになるかもしれない。その魅了の度合いは記者としての客観性を侵すほどだったかもしれない。だが人間が他の人間に魅せられることに客観性もなにもあるか、という心情だった。
 それからまた長い年月が過ぎたいま、李登輝という私の大好きだったヒーローの逝去は深い悲しみとともに、過去の心温まる思い出をよみがえらせるのである。
 
(令和2年7月31日付「Japan In-depth」より転載)