はじめに
1975年以来最も暴力的な衝突が印中国境地帯で発生した。2020年6月15日夜、ラダック州の一部、ガルワン渓谷において両軍の間で殴り合いによる衝突が発生した際に20名のインド軍兵士が死亡したと報じられた。中国が
インド国境道路公団による係争地でのインフラ建設を妨害するために、短期的に軍事要員を同地に派遣した5月以来、国境沿いの緊張関係は増加していた。インド空軍基地につづく新しい高地道路の建設が今回の論争の重要な引き金であった。それはつまり、
ダーボック-ショク-ダウラト・ベグ・オルディ道路(Darbuk-Shyok-Daulat Beg Oldie: DSDBO)が255kmにも及び、紛争時においては兵員や装備を輸送するためのインド側の能力を速やかに改善することのできる重要な戦略的インフラであること意味している。その道路はラダック州州都レー(Leh)とカラコルム峠へと近接する全天候型の道路として、印中実効支配線(Line of Actual Control: LAC)を同時並行的に運用する上で死活的なダウラト・ベグ・オルディ飛行場(2008年完成)とを結ぶものである。
印中国境地帯紛争
今や印中国境地帯は長年の係争地ではあるが、このガルワン渓谷衝突事件以降、焦点は同程度に再び計測されようとしている。同地域に沿う形で戦略的なインフラを建設しようとする競争は、直接的な両陣が加わった攻撃的な野心の結果として苛烈化している。即ち、両国は互いに一方の建造を排除しようと試みているのである。最近、2017年ドクラムでの印中軍の睨み合い事件の下で争われた印中国境地帯に近い場所で、中国がシッキム州(Sikkim)のナトゥ・ラ峠(NakuLa)へと広がる形で
2つの防空拠点を整備していると報道された。ドクラムでの事件後、中国によるインド・ブータン・中国の3ヵ国の国境接地点での建設による結果として台頭したということもあるが、人民解放軍はドクラムでの事件で侵入した地域を占拠してきた。
北京政府は――中国にしては異例のことであるが――印中国境紛争の性質の将来の指針として役立てようとドクラム事件に関する
声明文書を発表した。その内容は、中国がより好戦的な態度を採ることで、いかにして現地において現状に影響を及ぼそうと計画しているかを
強調する内容であり、同地域における軍事的インフラ建設を強化してゆくというものだった。
習近平による第19回中国共産党全国代表大会での
2017年報告も同様に、特に国境地域におけるインフラ整備目標を一新していた。それは、共同体の「安定と安全」を促進するために国境地帯沿いの開発を加速する計画を提案するものだった。その上、「近代的な国境防衛」を構築することで、国防動員の改善を優先することが定められた。
ドクラム事件以降、北京政府はブータン政府に対して、中国が同地域の支配を実効的な国境線へと転換することを認める内容のドクラムに関する
取引に応じるよう試みてきた。この行為は、分断と支配を許容する中国が実施する
「サラミ・スライス」作戦――
ドクラム、南シナ海、ヒマラヤ国境、そして今や徐々にガルワン渓谷で明らかになりつつある北京政府によって行われた政策――の下で行われたものである。
その上、中国政府は撤退に関する話し合いに向けた進展が何もないにも拘らず、西部に位置するLACの中国側で開発と建設案件を進めている模様だ。複数の情報筋によれば、その開発は中国がラダックへ、さらにはインド側へと、潜在的圧力を形成する戦略のように接近させようと推し進めている大量の兵員に後方支援を与えることが
意図されている。さらに、その戦略は同地域における厳しい冬季の間にも、同地に駐留することに固執していることを意味している。
中国はガルワン渓谷と占領されたアクサイチン(Aksai Chin)の一部であるランカ・ラ(Lanka La)において橋梁、道路、設営拠点を建設していると
信じられている。ランカ・ラとクリグモ・トラガル(Kyrmgō Traggar)の間を結ぶ道路は、報道されるところによれば中国によって修繕されている。2020年7月の北京政府によるガルワン渓谷インド側地域にあるYジャンクションからの撤退は、分割という本来の意図に反して、彼らの駐留を非合理なものとしたガルワン川の増水によるものと考えられている。
インド側によるDSDBOの建設は、中国をひどく不快にさせてきたが、しかし、インドは同地域における人民解放軍による長期的なインフラ建設に
追いつこうとしているに過ぎない。125の橋梁と73の戦略道路は、
LACのインド側における様々な対立に沿って支持されてきた。しかし、進展は緩やかである。現時点までにたった35の道路が仕上げられただけである。
その中でも重要なのが、アルナーチャル・プラデーシュ州のダンピン(Damping)—揚子江(Yangtze)間道路と、ウッタラーカンド州のガーティバガル(Ghatibagarh)—リプレケー(Lipulekh)間道路である。デリー政府は、ミッサマリ(Missamari)—テンガ(Tenga)—タワン(Tawang)間プロジェクトと、ビラスプル(Bilaspur)—マンディ(Mandi)—マナリ(Manali)—レー(Leh)間プロジェクトを含む9つの主要鉄道の追加敷設に賛同している。
これらの鉄道は中国との国境に沿うように運用され、インド軍が核となる砲兵隊を当該地域に配置させることを可能にする。航空戦術に関して言えば、インド軍はLACに沿って約25の滑走路を保有しているが、その主たる焦点は前進飛行場(Advanced Landing Grounds:ALGs)という構築中のシステムである。スホイ30戦闘機やチャタク・ヘリコプターは
チャブア空軍基地――インド空軍の主要基地で、中国東部郊外地域で中国と接するアッサム州に位置する――に配備される。
同基地は近年改修・近代化された。2018年にはインド政府は既存の8つの
ALGの近代化及び中国国境沿い地域に新規に7つ設置することを発表した。
同時に、インドによる国境沿いでのインフラ建設への関心がこの10年間で興隆してきたのと異なり、中国は早くも1950年には開始していた。当初から、陸上での設営に関する北京政府のやり方は積極的かつ強権的でさえあり、チベット体制という不可欠な側面を問題の枠内にはめ込んでいた。
北京政府はチベットに対する影響力を証明・結合するため、道路と鉄道を求めた。つまり、焦点は「道路建設は戦闘行為として見做す」という北京政府のチベットに対する
手法を機能させる道路の建設であった。
新疆、青海、四川、雲南とチベットを結ぶ道路は、壮大な人的費用によって機能しており、打ち勝ち難い抵抗であったが、騒擾を鎮圧するためにチベットへ兵力を移動することを奨励したような抑止を伴って模索されてきた。チベットの経済状況の改善はもう1つの必要なことであり、鉄道や石油パイプラインはその需要を満たすために建設されてきた。
道路開発と接続性に焦点を当て道路網構築「
バーラトマーラ(Bharatmala)」のようにインドのイニシアティブは、ガルワン渓谷事件後の秩序においてより原動力となる歓迎すべき第一歩である。「バーラトマーラ」の案件分類の中では、「国境道路と国際的接続性」が、「自立したインド(Aatmanirbhar Baharat)」ミッションが再び脚光を浴びたことと同様に2,000kmに及ぶ道路建設を次点目標の中心に据えている。
ネパール、ブータン国境における中国の影響
この2、30年に亘る国境地帯沿いでの中国のインフラ開発は、インドのみならずネパールやブータンとの国境線でも拡大してきた。例えば、2006年の
ゴルムド-ラサ間鉄道――2014年にシガツ(Xigaze)まで接続されたが――は、現在キドン(Gyirong)という名のネパール国境沿いの陸上輸送拠点や、ヤドング(Yadong)と名付けられたチベットとインドのシッキム(Sikkim)を結ぶナトゥラ峠近郊の貿易拠点まで延長されている。同鉄道はアルナーチャル・プラデーシュ州の北部ニンテイ(Nyingchi)と雲南省大里(Dali)まで延長される可能性もある。
他方、チベットとインド北部境界を規定しているマクマホン線と並行して走り、やがて近接するラサ(Lhasa)—ニンティ(Nyingchi)—大里(Dali)間鉄道は、インフラ開発を容易にしていると言える。ヒマラヤ地方における中国のインフラ開発の拡大は、戦略的・軍事的目的によって牽引されているが、南アジアのカウンターパート諸国の国内経済や政治における中国の影響をさらに高めている。
道路によるネパール-中国間の接続は、ネパールにインドに対する依存とインドを経由した貿易を
制限する選択肢を提供している。このことはネパール-中国間の相乗効果の深化と、シガツェ-キドン間鉄道をカトマンズ――同地からは中国がビハール州(Bihar)の国境へと北上する路線を提案している――へと
拡張する潜在的可能性を牽引している。チベット自治区(TAR)及びLACにおいて中国によるインフラ改修が人民解放軍にとって高い付加価値があるということは特筆すべきことである。
一方で、インドは陸上輸送インフラ構築アプローチが遅いため、対抗兵力の配備能力に限界があった。このことは、中国のLACへと続く国境道路――印中国境から5kmインド側に入ったラダック直轄領シリジャプ(Sirijap)での事案の様に境界を越えることさえ場合によってはある――という
事実分析によって見てとることができる。
しかし、インドのLACまでの国境道路はときに50km手前で途切れてしまっている。
先鋭化する印中の野心
2020年中国全国人民代表大会(全人代)常務委員会――新型コロナウィルスの影響のため5月に開催された――本会議において、インドもしくはLACでの衝突に関する言及は皆無だったことは
興味深い。しかし、「
深刻な党規律の違反」として掲載された人民解放軍の上級将校の免職は、人民解放軍最高司令官としての習近平がこの問題を最大限の関心をもって監視し続けていることを示していた。
インドにおける国境地帯でのインフラ建設への機運の盛り上がりは、戦略的に中国の野望を脅かしている。さらに、印中両国が地球規模の野心を有することで、両国の地域的な争いは、先鋭化の様相を帯びはじめている。インドの日米豪印戦略対話(Quadrilateral Security Dialogue)パートナー諸国やASEAN諸国との絆の強化と、活動牽引型の「アクト・イースト政策(Act East Policy)」の結果としての発展は、単独主義的に現状を変更するための攻撃性を伴う形での事態の進行を中国に決意させている。
コロナ後及びガルワン事件後にニューデリーと北京両政府の間で生じつつある秩序において、両国側も引き下がる様子を見せていない。このことは、2020年上海協力機構(SCO)国防相サミットの
「批判合戦」の関係性と同様に、印中の
准将級間で現在取り組まれている緊張緩和のための会談が遅鈍で限定的な進展になることが予想される。戦略的な警告と長期的目標を携えて前進することが目下の急務である。
(日本語訳:佐藤裕視)
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ジャガンナート P・パンダ(Jagannath P. Panda)
マノハール・パリカル国防研究所東アジアセンターセンターコーディネーター兼リサーチフェロー。専門は、中国とインド太平洋安全保障関係、特に東アジア、日本、中国、朝鮮半島。イギリスの出版社ラウトリッジのRoutledge Studies on Think Asiaの編集者でもある。2018—2019年にかけて日本財団と韓国財団フェローを務める。日中韓シンクタンクダイアローグのthe Track-II、Track 1.5にも参加。インド国際法外交学会より、2000年にV. K. Krishna Menon Memorial Gold Medalを授与される。