大御所キッシンジャー氏の偶像破壊か

.

顧問・麗澤大学特別教授 古森義久

 ヘンリー・キッシンジャー氏といえば、アメリカ外交政策の大御所とされてきた。特に丁度40年前の米中両国間の国交樹立ではその政策立案者として高く評価された。それ以後の同氏は一貫して米中友好を説き、中国の独裁体制や軍事膨張を非難することはなく「対中融和」派の旗頭ともされてきた。
 そのキッシンジャー氏がこの10月中旬、中国の軍事的な危険性をほぼ認める発言をした。この発言に対して他のベテラン中国専門家は「その中国の危険の認知は数十年、遅すぎた」と皮肉な論評を浴びせた。
 キッシンジャー氏は10月中旬、ニューヨークの民間学術機関主催のオンラインの討論会に出て、今の米中関係について以下のように述べた。ちなみに現在の同氏は97歳である。
 
 「今の米中関係は極めて危険な状態にあり、もし両国がこのまま高まる緊張を上手く管理できなければ、両国は第一次世界大戦時に似た状況へと落ち込んでいくだろう」
 
 この言葉はキッシンジャー氏が遠回しにせよ、今の中国がアメリカと戦争をしかねないという危険性を認めたのだと解釈された。同氏のそれまでの中国に対する種々の論評では軍事衝突の危険を述べることはなかった。つまり中国がアメリカを相手に軍事行動を起こし得るという認識には背を向けたままだったのだ。
 言うまでもなく、キッシンジャー氏といえば、米中国交樹立の立役者である。1971年、当時のニクソン政権の国家安全保障担当の大統領補佐官だった同氏はひそかに中国を訪問した。当時のアメリカは朝鮮戦争で血生臭い戦闘を繰り広げた相手の中華人民共和国をなお敵とみなし、台湾の中華民国と同盟関係を保っていた。
 キッシンジャー氏はニクソン政権が中国をもう敵とはみないという認識を伝え、その後の米中両国の接近への道を開いた。73年には同氏は再び訪中し、毛沢東主席とも会談して、米中和解の路線を推進した。
 アメリカ政府が中華人民共和国と実際に国交を結んだのは1979年1月、カーター政権の時代だった。中国側の代表は鄧小平氏だった。キッシンジャー氏はこの間、フォード政権の国務長官をも務め、中国との和解路線をさらに進めていた。国交樹立後もソ連との対決での「中国カード」の効用を説き、中国をより強く、より豊かにするという対中関与政策の基礎を主唱した。
 その後、アメリカの政権がレーガン、先代ブッシュ、クリントン、2代目ブッシュ、オバマ、トランプ各大統領と次々に替わっても、キッシンジャー氏は対中融和政策を主張し続けた。その間、同氏は中国側の信頼も厚く、アメリカの大企業が対中ビジネスを進める上でのコンサルタント業を務めて、巨額の利益を得たことも広く伝えられた。
 キッシンジャー氏はトランプ政権時代に中国側の国内での人権弾圧や国外での軍事膨張が顕著となり、アメリカの政府、議会、一般の中国への態度が極めて強硬になってもなお、中国を批判することはなかった。中国の潜在、顕在の脅威を認めることもなかった。
 それが米中国交回復以来41年目の2020年10月になって初めて公開の場での発言で中国とアメリカとの軍事衝突の可能性を認めたのだった。
 今のワシントン中心の中国に関するアメリカ官民の専門家たちの間では中国をアメリカにとっても、インド太平洋の周辺諸国にとっても危険な軍事脅威だと見做す認識が圧倒的に強い。その点ではキッシンジャー氏の態度は異端だったが、同氏のこれまでの歴史的な業績のためか、それを非難する声はほとんどなかった。
 ところが今回のキッシンジャー発言はまずベテラン中国問題専門家のジョセフ・ボスコ氏が「キッシンジャー氏の中国の侵略的本質への認識は数十年も遅すぎた」というタイトルの論文で批判的に取り上げ、これまでの同氏の対中認識こそが間違っていたのだと論評した。
 ボスコ氏は中国研究の専門家として2005年に2代目ブッシュ政権に入り、国防総省の中国部長などを歴任した、すでに古参の中国ウォッチャーである。そのボスコ氏がワシントンの政治外交雑誌『ヒル』の最新号に寄稿した論文でキッシンジャー氏が中国の軍事膨張や国際規範違反が明白な時代でも一切、中国を批判せず、寧ろ中国政府の弁解役を果たしてきた軌跡を鋭く指摘した。
 その上でボスコ氏はキッシンジャー氏が2020年4月に大手紙『ウォールストリート・ジャーナル』に寄せた新型コロナウイルスについての論文でも発生源の中国に対して全く言及しなかったことを取り上げ、次のように述べていた。
 
 「キッシンジャー氏は過去50年の間、8代のアメリカ政権、5代もの中国共産党の独裁政権の間で同氏自身が育て、推した関与政策の下で、中国側が何をしてきたかを明らかに認識してこなかったというのは、とても残念なことだ」
 
 アメリカの対中政策形成の偶像のような存在もここにきてついに現実に目覚めたのか、少なくとも後輩の中国研究専門家からの痛烈な非難を浴びるようになった、という変化なのである。落ちた偶像と評するのも単純に過ぎるだろうか。