「イタリア共産党の自己改革」
―日本の「オリーブの木」は育たない―

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会長・政治評論家 屋山太郎

 国政選挙が迫ってくると、毎回、野党が唱えるのが「全野党共闘」だ。小沢一郎氏などはイタリアで成功した「オリーブの木」を例に出す。確かにイタリアは選挙制度を日本同様の小選挙区比例代表並立制に変え(現在は修正)、何十年も続いた保守中道政権を倒した。新政権をリードしたのは旧共産党のリーダー達だった。しかし日本で同じことをやれと言っても、裏側に共産党の塊があることを皆知っているから、まとまらないだろう。では、イタリアと日本の違いはどこにあるのか。
 60年安保闘争の頃、日本では固い「社共共闘」が行われ、自民党政権はかなり揺さぶられた。社・共は同格とされていたが、誰もが「本家は共産党」と思っていた。そもそも共産主義の本流は共産党で、社会党員は二流という意識があった。また共産党に飽き足らない過激派も社会党に入っていた。
 上下両院で各33%もの議席を擁したのがイタリア共産党である。時折、第2党以下が過半数を集めて政権を執り、共産党を閣外に追い出した。日本共産党の日米安保反対と同様に、イタリア共産党はNATO加盟反対が党是だった。しかし96年の総選挙でオリーブの木に参加するに当たって、党名を変更し、NATOを認めた。これによって左派の垣根は崩れた。日本社会党も、村山富市氏が「自・社・さ」連立政権の首相になるに当たって、安保廃棄を「安保条約堅持」に変え、社会党は政権に加われた。イタリアと違い、「村山個人」の主導で党の最重要政策を変更したことで、社会党は一気に自滅してしまう。
 イタリア共産党は、ソ連共産党と違う点を見せるために、最初に民主集中制という共産党の暗黒部分を廃止した。党首も公選、その際公約も個人が勝手に設定してよいことになった。党大会は複数議題になるので、候補者同士が激論を交わすことになる。党内の分派活動、派閥活動も自由になった。
 ベルリンの壁が崩壊したのは89年11月9日だが、3日後にオッケット書記長はボローニャで演説し「民主主義と自由のために党を改革しなければならない」とぶち上げた。実は1年ほど前からオッケットは党内の各派に「党名改革」を根回しし始めており、党改革の最後のチャンスと見たのだろう。①NATOを認める、②党を解散する、③党名を左翼民主党にするというのが、社会党や各小党の願望だったから、オリーブの木(左派連合)方式の連合はすぐにまとまり、見事に一発で政権を奪取した。
 キリスト教民主党は反共だけが目的だったので、政権を失うと間もなく雲散霧消した。大政党が消えてなくなり、共産党も解党してしまうと、内閣総理大臣が見つからない。大統領が議員や民間人の中から選抜し、総理大臣を指名した。政治がうまくいっている例を示した訳ではない。国民のためになるなら、政党が時には自害も決意することがあるという政治家の意志に人々が感じ入ったのだ。
(令和3年6月2日付静岡新聞『論壇』より転載)