西村康稔経済再生相が、4度目のコロナ緊急事態宣言にあたって「無理筋」の経済対策を打ち出した。酒類の提供自粛に応じない飲食店に金融機関や酒問屋から“脅し”をかける方法を提案したのだ。法令の規定がないのに圧力をかければ違法だが、昔の官僚は平気で“違法行政”を行ってきた。一連の政府の活動は「官僚内閣制」の名残りなのだ。
欧米では将軍や王様を倒して庶民が政権を握ると革命政府は下請けや事務が必要となり、人を雇った。それが官僚だから、日本のように権限拡大を図って組織を大きくする発想はない。スイスの新聞にはよく「州の課長求む」という募集広告が載っていた。仕事の内容と給与等が書いてあり、一旦公募で採用されれば即、官僚となる。日本の官僚は月給と関係なく予算を増やして権限を大きくすることを考えるが、スイスで権限を増やせ、という官僚はいない。
日本の官僚内閣制は、支配者側が国会の体をなすために欧米の制度を勉強し、明治18年「内閣制度」を作った。6省で内閣制度はスタートしたが、最初の1つに文部省が入っていたことに讃嘆する。帝国議会の開催は明治23年だから、最初は官僚があらゆる仕組みを考えた。“天皇の官吏”だったから超一級の秀才が集まり、世間の評価も高かった。それが終戦を境に立法、行政、司法の三権分立となる。しかし行政のトップに座るのは立法府の国会で選ばれた首相ということだから、三権の中で内閣総理大臣が頭一つ抜け出した地位となる。
官僚内閣制は池田勇人、佐藤栄作という2人の官僚出身総理を抱いて、官僚中心の内閣を続けた結果、いびつな自由経済体制になった。JRは国有だったがために毎年2兆円もの赤字を出した。今、職員は36万人から18万人足らずと半減し、効率よく運営されるようになった。
安倍晋三内閣になって、立法府の議員が行政府の幹部人事を動かせる「内閣人事局」という切り札を創設した。この官僚弱体化の傾向を横目に見た若手官僚は、より権限を行使できる議員を目指すようになっている。
今回、騒動の西村康稔氏も通産省に入って途中で議員に乗り換えたクチだ。しかし官僚内閣制から転向した割には、官僚的発想が1ミリも変化していない。官僚が行政府から立法府に転出した動機は、より強い権力を持ってよい政治をすることだった。中選挙区制度をやめて小選挙比例代表制に移った最初の選挙は96年。これを境に選挙にカネがかからなくなって、官僚から議員への道は極めて楽になった。にもかかわらず、相変わらずカネを撒いて捕まる政治家がいる。行政指導を本気で考える大臣もいる。小選挙区制度によって、田中角栄時代の金権政治や官僚内閣制を変えた筈が、いまだに特殊法人が100もある。官僚や天下りが国の事業から手を引けば、国家の生産性が上昇するのは必至だ。
(令和3年7月21日付静岡新聞『論壇』より転載)