《日英関係コラム Vol.1》
海洋国家の生きる道

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研究員 橋本量則

はじめに
 今年9月、英国が誇る最新鋭空母「クイーン・エリザベス」を中核とする英空母打撃群が日本に寄港した。そして、同空母が率いる英空母打撃群を交え、日米欧の共同訓練も展開された。これにより、日英関係がこの数十年間で最も良好で緊密なものになっていることを世界に示したわけだが、これほど良好な日英関係は、日英同盟以来のことではないだろうか。日英関係がどのような道をたどってきたか、そして今後どのような発展を遂げるかを、歴史と地政学を交えながら考えてみたい。
 
海洋国家・大英帝国
 18世紀から19世紀にかけて日の沈まぬ帝国と謳われた大英帝国は、七つの海を股に掛けて貿易を行い、繁栄を享受したが、それは強大な海軍力によって支えられたものであった。その大英帝国が「栄光ある孤独」といわれた非同盟政策を捨て同盟国として選んだのが、彼らから見て極東に位置する島国・日本であった。なぜ英国は日本を選んだのか、そこには地政学が大いに関係している。地政学と言っても何も難しい話ではなく、世界の国々は海洋国家か大陸国家に特徴付けられ、それぞれが地理的特徴を背景に競い合っているというのが、その基本的な考え方である。海洋国家の典型例は日本や英国であり、大陸国家の典型例はロシア、ドイツ、中国と考えるとわかりやすい。
 当時、世界最強の海洋国家・英国は同じく海洋国家である極東の島国・日本をパートナーに選んだわけだが、その理由は単純で、当時英国の最大のライバルであった大陸国家・ロシアを封じ込めるためであった。当時のロシアは凍らぬ海を求めて南下するのを常としており 、中東からインドを押さえていた英国とは中央アジアの覇権をめぐって激しく争っていた。同じように、ロシアの南下に悩まされていたのがトルコと日本であったが、特に日本は、海洋国家であり、その海軍設立には英海軍の助力が大きかった。つまり、単なる利害の一致だけでなく、海洋国家としての親和性が日英を結び付けたとも言えよう。その日英同盟が大成功であったことは、改めてここで述べるまでもない。
 しかし、この日英の最良の日々は1921年のワシントン会議で終わりを告げた(正式な失効は1923年)。英国内にも、日英同盟の解消は米国の圧力によるものだという声もあり、以後も日英同盟の復活を望む声は少なからず存在し続けた。実際1928年に英国政府内で日英同盟の復活が検討されていたことはあまり知られていない。また、1934年には「日英不可侵協定」を模索する動きが英政府内で活発化している。これを主導したのは、ネビル・チェンバレン財務相で、1934年3月14日の閣議において、極東における日本との連携が帝国の防衛体制を整えるのには有用であると説いた。チェンバレン財務相と並んで、日本との連携を推進しようとしていたのがモーリス・ハンキー官房長官であった。チェンバレンが「財政派」の頭目であるとするならば、ハンキーは「帝国派」の頭目であった。大英帝国の維持には強大な海軍力が不可欠であるが、大海軍を維持するには莫大な資金を要する。「財政派」としては、世界恐慌の影響で財政が厳しく、何とか海軍軍縮を進めたい。一方、「帝国派」は当然帝国の防衛体制を維持したい。であれば、日本ともう一度手を結べばよいではないか、というのが彼らの共通した結論であったのだ。しかも、翌1935年には第二次ロンドン軍縮会議が迫っていた。
 しかし、1930年代の世界の情勢は既に1902年当時から大きく変わっていた。世界の覇権は英国から米国に移り、その米国は中国市場に熱視線を送っているし、日本は満州で大陸国家の真似事をしはじめ、ドイツと接近しつつあった。英国にとって、ソ連は成立して間もないのでかつてのような脅威にまではなっていなかったが、今度は中国における権益をめぐって日本とたびたび対立するようになっていた。つまり、この時、日本も英国も海洋国家、通商国家としての本分を忘れていたといえる。その行き着いた先が、第二次世界大戦であり、それにより大日本帝国は滅び、大英帝国も瓦解した。海洋国家の生きる道は、自由な通商と、それを可能にする海洋の自由にある。海軍はこれらを守るのに必要な力なのだ。英国の「帝国派」が1930年代までなんとか日本との連携、関係改善を模索していたことは、実に示唆的である。
 
失われた帝国からグローバル・ブリテンへ
 戦後の東西冷戦を海洋国家・米国と大陸国家・ソ連との争いとみれば、日本、英国ともに米国の同盟国として海洋国家の陣営に属し、結果として繁栄を手にしたといえよう。しかし、冷戦終結後はどうであったか。日本は憲法の制約下で海洋国家の本領を発揮できず、英国は欧州の一員として欧州大陸の影響下に入ってしまった。英国の外交政策には3本の柱で成り立っているというのが伝統的な考え方で、その3本柱とは、米国との関係、欧州との関係、そして英連邦(旧帝国)との関係である。冷戦期は米国との関係が最も重要であったが、冷戦後は欧州の重要性が増した。特にEUへの加盟によって英国はEUの政策・法律に縛られるようになった。EUに加盟したまま英国が独自に通商を行うことは不可能になったわけだ。そして、そのEUを主導するのはドイツ、フランスという大陸国家であった。つまり、英国は事実上、欧州大陸に組み込まれたかたちとなった。
 しかし、2016年、英国は住民投票の結果を受け、EUから離脱することを決めた。多くの識者たちが、EUから離脱すれば経済的損失は計り知れないと、この決定を批判したが、地政学的にみれば、英国のEU離脱は当然の帰結であったといえる。英国民はわれわれ日本人が思う以上に自由を重んじる国民性を持っている。これは、海洋国家の気質といってよいかもしれない。だからEUの法律に縛られるのに嫌気がさしたとしてもおかしくないのである。
 EUを離脱した英国が進むべき道は明らかで、世界の海に漕ぎ出して、通商を行うことである。英国政府は新しいスローガンとして「Global Britain(世界規模の英国)」を掲げた。幸運にも、英国には英連邦という大英帝国の遺産が残っており、英連邦諸国との関係を深めることで、英国が再び世界的な通商国家に戻ることは十分可能であろう。今年6月、英国が加盟交渉を開始したTPPに英連邦諸国が複数加盟していることも、英国にとっては好都合だろう。
 そのおよそ1ヵ月前の5月、英国は英空母打撃群をインド太平洋に向けて送り出した。英海軍の最新鋭空母「クイーン・エリザベス」が母港ポーツマスを出港する際、エリザベス女王、ジョンソン首相が相次いで激励に訪れ、英メディアも「英国が世界の舞台に戻る第一歩」として大きく報道した。英国は覚悟を示したのだ。インド太平洋において同空母はシンガポールや日本など、かつて大英帝国と関係が深かった国々に寄港しただけでなく、南シナ海を通過し、さらに、日米欧の合同軍事訓練にも参加した。これは明らかに中国を牽制したものであった。大西洋に浮かぶ英国が、長い間保有していなかった空母打撃群を編成し、わざわざインド太平洋まで派遣し、中国を牽制したことになる。これはもちろん彼らの戦略に基づいてのことだ。そのヒントになるものが、今年3月に発表された英国政府の国家戦略『Global Britain in a competitive age(競争時代におけるグローバルな英国)』の中で明示されている。
 そこには「インド太平洋地域は英国の経済、安全保障、そして開かれた社会を支えるという地球規模的な大望にとって極めて重要であり、英国の経済、安全保障、価値観のために、より深くこの地域に関与する必要がある」と明記されている。さらに具体的に、「英国のアジア貿易の多くはインド太平洋の戦略的要衝を通過する船舶輸送に依存している。それゆえ、航行の自由を保全することは英国の国益に不可欠である。英国は既にこの地域のパートナーたちと緊密に連携しており、今後も軍事を含め一貫した関与政策のもとに活動していく」としている。要するに、自由貿易や国際社会の安定に必要な国際ルールを守るためにはパートナーと共に軍事力を行使することも辞さないという覚悟を示したのだ。英空母打撃群のインド太平洋への派遣は、この地域に国際ルールを守らない脅威が存在すると英国が認識していることに等しい。
 
日本の進むべき道
 このように英国は、かつて持っていた「海洋通商国家」としての生き方を取り戻したように見える。そして、時を同じくして、日本は「自由で開かれたインド太平洋」を謳い、米国はもちろん、インド、オーストラリアとも緊密に連携してきた。そして、奇しくも、日英同盟の解消を決めたワシントン会議から100年後、日本と英国は再び価値観と利益を共有する立場に立ったのである。現在、海洋の自由を脅かしているのは誰かを考えれば、海洋国家・日本が進むべき繁栄の道は自ずと見えてくる。それは、独裁的な「大陸国家」の生き方とは相容れないものである。