はじめに
昨今、盛んに「日英同盟の復活」が唱えられるようになった。お互い海洋国家同士、同盟復活は大いに結構なことである。だが、英国を多少知る者から言わせて貰えば、事はそれほど単純ではない。英国民の中には未だ根強い反日感情が存在しているからだ。それは我が国が戦後、「歴史問題」を後回しにして来たツケでもある。筆者は、日本のマスコミや所謂知識人が言うように「日本は謝罪が足りない」などと言いたいのではない。寧ろその逆で、これまで我が国の政府も学会も言論界も簡単に日本の「非」を認め、謝罪を繰り返すあまり、「歴史」を議論する機会、つまり相互理解の機会を自ら放棄してきたと筆者は考えている。
議論の積み重ねで成り立っている英国の知的空間において、そのツケはあまりに大きい。特に「歴史」という分野は、学術的な「歴史学」と大衆の認識とも言える「ポプピュラー・ヒストリー(大衆の歴史)」とが相互に影響しつつ成り立っているようなところで、地道な学術研究と認識形成の蓄積が幾層にも重なり合っている。この75年間の知的蓄積の中に、日本の言い分や見解がほとんど皆無だということの重大さ、その気の遠くなるような疎外感は、そこに実際に足を踏み入れてみなければ分からないのかもしれない。
従って、英国人の多くは日本人の思考、特にその歴史観について、全く理解していない。日本人が日英同盟を懐かしみ、英王室に関心を寄せ、英国文化の美点だけを遠くから眺め、紳士の国だと憧れ、親近感を持つのと同じだけの関心を、一般の英国人は日本に対して抱いていないのである。寧ろ、その感情の奥底には強烈な反日感情が存在する。これは第2次大戦当時の英国の対日認識が、戦時プロパガンダや誤解も含み、そのまま残っているからである。英国人は日本が戦時中に行ったと彼らが信じるところの「蛮行」について、日本から未だ納得のいく説明を聞いていないと思っている。一方、戦後の日本人は、英国人が日本に対してどのような感情を持っているか知らぬままに、英国人の偏った対日認識を正そうとはして来なかった。つまり、事歴史の問題に関しては、日英は擦れ違ったまま、75年以上を過ごしてきたのである。
本稿では、現在の日英関係における唯一の懸念材料である、先の大戦の歴史認識問題について、英国で歴史学に身を置いた者の視点から述べてみたい。
英国の対日感情
先の大戦において英国は、日本軍によって東南アジアから追い払われ、数万の捕虜を出し、遂には大英帝国をも失った。その衝撃と怨嗟は、未だ英国人の内面に刺さった棘として消えずに残っている。特に、約6万人の連合軍捕虜が泰緬鉄道の建設工事に駆り出され、食糧や医薬品の不足、不衛生な住環境、厳しい労働環境、疫病の蔓延などの理由で1万2千人が死亡した件は、戦後、英国人の間に反日感情が固着するのに決定的であった。戦後、英国の対日イメージは「捕虜を奴隷の如く酷使し、その命を何とも思わない野蛮人」というものから出発することとなった。これは彼らの一方的な言い分であるが、戦後、英国はこの一方的な言い分によって戦犯裁判を行い、杜撰な証拠で次々と日本人を有罪にしていった。これにより、一部の日本人の間にも、反英的な感情が残っている。この日英両国の間に刺さったままの棘は、今後の両国の関係発展の為にも抜いておかなくてはなるまい。日英の離反を望む者がいるとしたら、先ず、この点を突いてくるのは目に見えている。
実際、戦後50年を契機として1995年に英国で湧き起こった反日の気運は、1998年の天皇陛下御訪英の時にピークを迎えたが、その辛辣さは当時、在英日本人たちに衝撃を与えたほどであった。これまで日英の「和解」の試みが全く為されて来なかった訳ではない。だが、問題は全く解決していない。それは、日本側が行う「和解」の活動のほとんどが、「議論」を避け、一方的に「謝罪」することを主眼としていたのが大きな要因だと考えられる。議論しなければ相手の認識が根本的に変わることはない。しかも知識人になればなるほどこのような傾向は強い。日本人はあまり理解していないようだが、「謝罪」は怒りを鎮めるための行為であり、相手の「認識」を変えるためのものではない。英国人がよく使う「Forgiven, but not forgotten.(許してやる、しかし忘れたわけではない)」という文句がそれをよく表している。
戦犯裁判の研究をしていると、英国人のこのような性質がよく見えてくる。英米の裁判では罪状認否で罪を認めてしまえば、裁判はそこで終了し、被告人には100パーセントの罪と罰が与えられるだけである。弁明は「潔くない」「見苦しい」行為などでは決してない。議論を尽くして真実を見つけるのが英米のやり方であり、そこに参加することは真実を見出すことへの貢献なのである。これは19世紀の英国の思想家ジョン・スチュアート・ミルが著書『自由論』で説いたところでもあり、「議論の自由」、そしてそれを保証する「言論の自由」が議会制民主主義の支柱と見做されているのは、議論によって真実を見出すことができると考えられているからだ。この思想は英国の司法にも色濃く反映されていると言ってよい。
従って、戦犯裁判にも必ず検察と同等の弁護人がいなくてはならない。判事が検察に肩入れしていたという事実はあったとしても、弁護人の弁論は裁判記録に残り、それは公文書として永久に保管される。このような英国の公文書を見ると、面白いことが色々と見えてくる。
実は、戦後間もない頃の方が、英国における真の親日派と呼べる政治家、知識人は今よりはるかに多かったのではないかと思われる。もちろん、日英同盟時代を知る、戦前からの親日派が健在であったこともあるが、おそらく、戦後の戦犯裁判で英米人弁護人たちが展開した「日本の弁明」が、英米の一定の知識人に影響していたことも要因だと考えられる。
殊に、東京裁判の判決後、重光葵の弁護を担当したファーネス弁護人は減刑の嘆願書を提出してくれるように英国の親日派人士に働きかけたが、日英開戦の時まで駐英日本大使として平和の道を模索していた重光を救い出そうとする彼らの反応は素早かった。下記の人々が嘆願書に署名し、数日しか残されていなかった提出期限に間に合うよう電報でマッカーサー元帥に提出した。
リチャード A. バトラー(第1次チャーチル内閣で教育大臣、労働大臣、戦後の第2次チャーチル内閣で財務大臣、その他主要閣僚を歴任)
ロバート・クレーギー(元駐日英国大使)
エドワード・クロウ(元駐日英国大使館付商業顧問、元海外貿易総監)
アーサー・エドワーズ(元満州国財務顧問)
ハウエル A. グウィン(元モーニング・ポスト紙編集長)
モーリス・ハンキー(貴族院議員、元内閣官房長官:1916-1938年、元無任所大臣:1939-40年、元財務主計総監:1941-42年)
フランシス・リンドリー(元駐日英国大使)
フランシス・ピゴット(英陸軍少将、元駐日英国大使館付武官)
ウィリアム・フォーブス・センピル (貴族院議員、元英空軍将校、航空家)
彼らの重光葵釈放を求める活動は、英議会にまで及んだ。1949年5月19日、英議会貴族院において、モーリス・ハンキー卿が中心となり、重光の釈放を求める動議が提出され、少数ながら親日派議員たちが日本擁護論と重光擁護論を展開した。当然、言論の自由が保証されている英議会においては、敵国日本を擁護するだけでなく、東京裁判を批判することもできた。親日派議員たちの主張は、「不公正な裁判を認めることは、英国の権威を傷つける」というものであった。この点は、GHQによって東京裁判への批判が許されなかった日本とは事情が大いに異なる。
仮定の話になるが、このような親日派人士の力を借りて日英が真剣に対話を重ねていれば、或いは、戦後50年を経て後、ロンドンで元捕虜たちが天皇陛下に背を向け、抗議の声を上げ、日の丸を燃やすことはなかったかもしれない。だが、日本は戦後一貫して「沈黙」するばかりか、徒に「謝罪」を繰り返し、「議論」を避け続けてきた。かつての英米人たちによる弁護を、日本人の方が無視し、忘れ去ったのである。「自由」を重んじる英国人と本当に仲良くしたいのであれば、たとえ相手の主張と異なろうと自らの主張は堂々と主張すべきことを、現在の日本人は知っておくべきであろう。
英国に、「The Burma Campaign Society(ビルマ作戦協会)」という日英の退役軍人を中心に設立された団体があるが、現会長を務めるマクドナルド昭子氏は、会員の英退役軍人たちに真っ向から議論を挑み、その結果、厚い信頼を得て来た人だ。日英の真の和解を実現しようとする時、同氏の姿勢に見習うべき点は多い。
戦後の親日派英国人
今後の日英の相互理解の為に、重光葵の釈放を求めてどのような英国人がどのような行動を取ったか、簡単に述べておきたい。
ハンキー卿は前回のコラムでも触れたが、戦前から日本との関係を重視していた英政界の実力者で、1916年から1938年まで内閣官房長官を務めた。1939年から1940年の間、チャーチル首相の戦時内閣でも無任所大臣として閣内に残り、1941年から1942年は財務主計総監として入閣した。戦後もその親日の姿勢は変わらなかった。
リチャード・バトラーもチャーチルの戦時内閣で閣僚を務めながら、戦後、重光の減刑嘆願書に署名した。その後、1951年に発足した第2次チャーチル内閣でバトラーは財務大臣に就任し、それを皮切りに重要閣僚を歴任した、戦後の英政界の大物となった。
1946年に東南アジア特別高等弁務官としてシンガポールに赴任したキラーン卿は、1920年の皇太子(後の昭和天皇)ご訪英の際、スコットランド旅行に随伴した人物で、戦後、マッカーサーが最初に昭和天皇との面談を許した英国人でもある。1932年、英公使として中国に駐在していたキラーン卿は、同じく日本公使であった重光葵と上海事変の収拾のため緊密に協力していた。キラーン卿は、東京裁判で重光を弁護するため、法廷に供述書を提出したが、英国公文書館には、この時英政府がキラーン卿に供述書提出の許可を与えた文書が残されている。その供述書の中でキラーン卿は、「重光は上海でテロに遭い、重傷を負いながらも、病院で停戦合意書に署名した」と述べ、重光の人間性を高く評価している。因みに、重光はその署名の後、片足を切断する手術を受けた。キラーン卿は、1949年5月19日にハンキー卿から貴族院に提出された「重光の釈放を求める動議」にも賛同していたが、当日の出席は叶わず、同僚のセンピル卿にメッセージの代読を依頼した。そのメッセージは「法廷が重光に7年の刑を言い渡しと聞いて、彼を知る他の多くの者たち同様、私は衝撃を受けた」と締め括られていた。
キラーン卿のメッセージを代読したセンピル卿もまた親日家として知られる。1920年代、日本海軍に航空戦力を導入する際に、パイロット訓練の教官と航空機導入のアドバイザーを兼ねて、海軍航空隊設立に多大なる貢献をした人物で、後に英空軍の機密を日本に漏らしたスパイ疑惑のためにMI5から監視を受けていた人物でもある。センピル卿も議場で、重光は「常に日英関係を好転させるための努力の先頭にあった」と述べ、重光と協力し合っていた英側の人物として、自身の他、ハンキー卿、ロイド卿、ピゴット少将の名前を挙げた。ロイド卿は英政界の大物政治家であったが、1941年2月に亡くなっていた。
ハンキー卿は著書『Politics, Trials And Errors』の中で、1940年後半、日英開戦を避けるべくロイド卿と共に重ねた重光との会合は、ハリファクス外相の承認の下で行われ、チャーチル首相も当然把握していたと述べている。彼らの間で調整役を担っていたのが、東京の英国大使館で駐在武官を2度経験したピゴット陸軍少将であった。彼は、ロイド卿、ハンキー卿と重光の会合の場として、サリー州の自宅を提供した。戦後、ピゴット少将は東京裁判の被告人たちのために幾つもの供述書を提出し、さらにフィリピンで行われた本間雅晴中将の裁判にも供述書を提出した。
ピゴット少将の盟友として知られるのが、日英開戦まで駐日英国大使を務めたクレイギー大使である。彼は1942年、捕虜交換船で帰国した際に報告書を英国政府に提出し、日本との戦争は避けられた筈であると、対日強硬姿勢を貫いた本国政府を痛烈に批判したことで知られる。彼もまた、重光の釈放を求める嘆願書に名を連ねた一人である。
英国人の中にはこれらの親日家を売国奴のように言う者も少なくないが、彼らの真心を日本人は忘れてはなるまい。敗れた日本に肩入れして得することなどない筈なのに、彼らは批判を承知で声を上げたのである。これこそが英国人が貴ぶ「フェア」の精神である。この精神に則って、日英開戦前に戦争回避のため重光と会合を重ねていた英国人たちが、戦後、この「友人」の判決を知って再び集結したという事実は忘れてはなるまい。1954年、重光が外相として国際舞台に復帰した際、これを最も喜んだのは英国のこれらの古い友人たちだったのかもしれない。
結び
戦後日本は、「歴史」問題に蓋をし、議論を避けてきた。黙して耐え忍べば、いつか問題は解決しているとでも思っていたのであろうか。だが、それで我が国の置かれている状況が少しでも改善したであろうか。「過去」を理由に憲法改正は進まず、それが安全保障政策にも影響を及ぼしているこの現実をどう見るのか。近頃、俄に緊密の度合いを増している英国に対しても、理を尽くして両国の「過去」を議論することこそ、真の友情を築く為の基となろう。日英の間に未だ抜けずに残る「歴史の棘」を取り除くことは決して「過去」の問題ではなく、「現在」そして「未来」の日本の安全保障にとって極めて重要な問題である。そこに民間シンクタンクの大きな役割があることは言うまでもない。