ロシアのプーチン大統領の対ドイツ戦勝記念日の演説を聞いて、つい思い出したのは荒れ果てた日本人墓地だった。その墓地はモンゴル共和国の首都ウランバートル郊外の淋しい丘にあった。
プーチン大統領の5月9日の演説はロシア人たちの第二次大戦での被害を強調していた。人間レベルでの悲劇や惨劇、そして犠牲だった。クレムリン前の赤の広場でのこの儀式の演説ではプーチン大統領自身がドイツとの戦いで重傷を負ったという父親の写真を手にパレードに参加していた。
「ロシアではかつての大愛国戦争によって傷つかなかった家族はいない。貴い命を捧げたヒーローたちのためにその子孫たる我々はいままた敬意を表する」
「あの大戦争で命を失ったすべてのロシア人への神聖な思い出に我々はいま深く頭を下げる。残虐なナチスを撃退し、みずからを犠牲にした人々の思い出に祈りを捧げる」
「我々は伝統ある祖国の価値観、先祖たちの習慣やすべての民族や文化への尊敬の念を決して忘れることはない」
プーチン大統領は以上のような言葉をも演説のなかに織り込んでいた。そこだけ聞けば、とにかくロシア人たちがどれほどむごい被害にあってきたかの繰り返しの強調だった。その一部には他国の民族や国民への同情をも保つという響きもあったが、基本は自分たちの被害の力説だった。
プーチン大統領はそして全体で4分間ほどのこの演説の残り部分のほぼすべてを今回のウクライナへの軍事侵略の正当化に費やしていた。
「ウクライナは核武装を計画し、ネオナチが勢力を広げた」
「ウクライナ作戦(軍事侵攻)はロシアの安全を守るための予防先制攻撃だ」
「ロシア軍はドンパス地域(ウクライナ領東部)でロシアの安全保障のために戦っている」
「欧米はNATO(北大西洋条約機構)を主体にロシアへの攻勢を準備している」
いずれも事実や国際規則に反する勝手な主張だった。欺瞞だった。プーチン大統領がそんな無法な主張を口にする、その瞬間にもロシア軍はウクライナの国民を殺傷し、社会を破壊しているのだ。
私がモンゴルの日本人墓地の光景を思い出したのは、プーチン大統領のあまりに独善、あまりに自己中心の言葉に怒りを覚え、ロシアの前身のソビエト連邦がわが日本をどのように傷つけたかを想起させられたからだった。その日本への残虐な行為の結果の一つがその日本人墓地だったのだ。
その墓地をみたとき、私は胸がつまった。ああ、なんとも多数の日本人がここで亡くなり、遠い異国の地の果てに長年、放置されてきたのだなあ、という実感だった。その悲劇を日本人に与えたのはロシアだったのだ。正確にはいまのロシアの母体のソビエト連邦、プーチン大統領がまさにいまも「祖国」と呼ぶ存在である。
私がその墓地を訪れたのは2000年7月だった。当時、産経新聞の中国総局長という立場にあった私は隣国のモンゴル国の大統領選挙の取材でウランバートルに短期、滞在した。選挙も終わった時点で郊外のダンバダルジャー墓地という日本人捕虜埋葬の地に足を運び、弔意を表したのだった。
墓地といっても放置されたままの状態なので、無惨な光景だった。無人の斜面の草地に低い柵で仕切られた100メートル四方の地面に600ほどの金属板の墓標が乱雑に並んでいた。墓標にはそれぞれに物故者の名前と出身地が日本語で記されていた。
だが墓標は多くが倒れて散乱したままだった。記された名前も汚れ、傷つきという状態だった。同じ日本人として胸を重くする情景だった。
この地に埋葬された日本人はみなソ連軍に不当に抑留され、強制労働を科された犠牲者だった。ソ連はシベリアに収容した多数の日本人の旧軍人や民間人の多くを当時、支配下にあったモンゴル人民共和国内にも送り、その地で強制労働をさせたのだった。私がみた墓地に埋葬されたのはそのソ連の暴虐な行為の犠牲になって、倒れた日本の同胞だったのである。
いまのプーチン大統領が「大愛国戦争」と呼ぶ第二次大戦ではソ連は1945年8月9日、日本との相互不可侵条約を破って、日本への攻撃に出た。当時の満州国から朝鮮半島にソ連の大部隊が雪崩れ込んだ。日本はすでにポツダム宣言を受諾し、戦闘を停止したのにソ連軍は侵略と暴行を重ねた。
武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人はソ連によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、その後、10年以上にわたり、抑留と奴隷的強制労働を強いられた。モンゴルにも数万人が送られ、犠牲者を多く出したのだった。ソ連によってそんな苛酷な強制収容をされた日本人の総数は60万近くにも達した。その強制労働中に死んだ日本人は約6万にも及んだという。すべて国際法、戦時か法に違反する行為だった。
プーチン大統領には祖国の大愛国戦争のこんな側面をも想起してほしい。あの戦争でのロシア人たちの悲劇や惨劇を説くだけでは、いかに独善であり、不公正であるかを知ってほしい。そしていまウクライナ侵略を正当化する理屈の虚構や偽善を自覚せよ。モンゴルの日本人捕虜の悲痛な墓地を思い出しながら、こんな感想を強く覚えたのだった。