安倍晋三氏を悼む

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会長・政治評論家 屋山太郎

 安倍晋三元首相を亡くしてしまった虚無感は消えることはない。しかしこの虚無の中で安倍氏の功績を思い浮かべながら、新たな一歩へのはじめとしたい。
 約20年前を思い起こすと、日本の政治は取り留めのない漂流の日々だった。その原因となる誤りの1つは、日米安保条約について「同盟関係を結ぶことはできるが、行使することはできない」という条約締結以来の解釈だった。安倍氏は「『(集団的自衛権の)権利はあるが行使はできない』というのは日本語としても解釈がおかしい」と主張した。安倍氏は全法制局と大手官庁の幹部を相手に大議論を行い、法制局長官に外務官僚を起用することで反対を乗り切った。その時、政治が官僚を動かすこともあるのかと悟った。
 現在、日米豪印(クアッド)構想は世界の常識になりつつある。しかし安倍氏がインドに出かけてモディ首相と友好関係を築き始めたのは、実に2007年のことである。そんなに早くインドに手をつけた理由について安倍氏は「中国で反日運動が見え始めたからだ」と語っていた。なるほど、これが「地球的規模の外交」かと、納得がいった。当日本戦略研究フォーラムの最高顧問にご就任いただいた時には「『インド訪問の知恵』をお貸し下さい」とお願いした。
 日本の外交には具体的な「言葉」が存在しなかった。政界の隅で「台湾問題は重要だ」というつぶやきは聞こえてくるのだが、「言葉なしの暗示」に留まっていた。自民党党是である憲法改正も60年余つぶやきながらも、具体的な提言はなかった。安倍氏は退任後に自分が発言者になろうと自覚したようだ。
 タブーだった台湾問題についても安倍氏は「台湾有事は日本有事だ」と発言した。これで国民は初めて、事態の重さを想定できるのだ。少なくともこれで「日本有事」を学習するようになった。米国が台湾に与えている約束である「台湾関係法」は「曖昧法」とも呼ばれているが、曖昧であるが故に、他から舐められるスキが出てくる。そこで安倍氏はバイデン大統領に対し「(支援の)中身を明らかにする方が良いのではないか」と進言した。
 ロシアがいきなりウクライナの頭を叩いたのは、ロシアが相手の軍備の内実を知っていると錯覚していたからだ。米軍が台湾に援助する内容を仄めかすだけでも、中国の対台湾・対米戦略は大きく変わるのではないか。
 世界は今、安倍氏を通じて友好関係を存続しつつある。しかしよく見つめると、自由民主主義体制の国が中心になっているのが分かる。新たな東西分裂の兆しが見え始めている。すでに技術分野や資源の分野では、体制の組み直しが行われている最中である。東西冷戦で、最終的に米国がソ連に勝ったのは技術力の差からだった。
 民主主義をテロでぶち壊そうという手合いは、いくら言論の保障をしてもいなくなることはない。重要人物は周りが身を挺して守るしかないのである。
 安倍晋三氏は世界的に守るべき価値のある人材であった。その人物があんな簡単なテロにやられるのは、100%、警備する側の落ち度と言うしかない。