旧ソ連初代大統領ミハイル・ゴルバチョフとは何者だったのか

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政策提言委員・経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員 藤谷昌敏

 先日死去したソビエト連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフは、内外で大きくその評価が分かれる。米国やヨーロッパでは、高い評価を得た。日本においても冷戦終結の立役者として、市中で「ゴルビー人形」が売られるほど人気が高かった。だが、一方では、ロシア人の大多数から強い非難を浴びた。ウクライナ、バルト三国などの独立による帝国の解体、国威の失墜、著しい生活レベルの低下などがあったからだ。
 いったいゴルバチョフ氏とはどのような人物で、どのような考えを持ち、何をした人物だったのか。
 
ゴルバチョフ氏とは
 ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(1931年3月2日~2022年8月30日)は、ソビエト連邦最後の最高指導者であり、1985年から1991年までソビエト連邦共産党書記長、1990年から1991年までソビエト連邦大統領を務めた。両親は集団農場(コルホーズ)の労働者であり、典型的な貧農の家庭で育った。祖父が共産党に入党し、地域のコルホーズの議長となったが、その後、親トロツキー主義者・反革命の容疑で逮捕され強制労働の刑に処された。この容疑は当時の飢饉が農場の種まきの不履行で生じたという全く根拠のないもので、そもそも畑に蒔く種もなかった。
 ゴルバチョフは、家畜の飼料にも困るような貧困と飢餓の中、集団農場で働き、物理、数学、文学に傾倒してモスクワ国立大学に進学した。大学在学中の1953年に同級生のライサ・ティタレンコと結婚し、1955年に法学博士号を取得した。大学時代、スターリンの主義・主張の根拠が曖昧で、こじ付け的で非常に疑わしいのに比べて、マルクス、エンゲルス、レーニンらの理論が現実の社会主義を認識するのに非常に役立つと考え、強く傾倒していった。また、ユダヤ人の友人の一人が「医師団陰謀事件」(1952年ごろ、スターリンのユダヤ人医師グループが暗殺を企てたとして逮捕、後日虚偽と判明)に巻き込まれ、市民から激しい暴力を受けるなどの迫害に遭った。これらの経験がスターリンの死後、ニキータ・フルシチョフによる脱スターリン改革に賛同し、熱心な推進者となった動機となった。
 1978年、党中央委員会書記となり、1980年、党政治局員となる。レオニード・ブレジネフの死後、ユーリ・アンドロポフとコンスタンティン・チェルネンコを経て、1985年、書記長に選出された。その後、ゴルバチョフはアフガン戦争から撤退し、レイキャビクの米ソ首脳会談において、「戦略核兵器の50%削減」「中距離ミサイルの完全廃棄」「弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の体制強化と核実験禁止」を決定した。これにより米ソは核なき世界に向けて大きく前進した。国内では、言論・報道の自由を認めるグラスノスチ(開放)政策、経済の意思決定を分散して効率化を図るペレストロイカ(再構築)政策がとられた。ゴルバチョフがソ連邦の崩壊の危機を招いたことで、マルクス・レーニン主義の保守派は1991年にゴルバチョフに対するクーデターを起こしたが失敗に終わった。その結果、ゴルバチョフの意に反してソ連は解体され、ゴルバチョフは辞任した。
 
情報機関KGBの強い後押しを受けたゴルバチョフ
 スターリンの死去後、共産党の特権階級ノーメンクラトゥーラは、自分たちの政治的地位によって、いくらでも富を独占できることに気づき、ソ連は賄賂で何もかも買える時代となった。腐敗はソ連全体に広がり、マフィアたちも動き出した。ノーメンクラトゥーラたちは、マフィアに攻撃されることを恐れて、マフィアと手を組み犯罪者を保護するようになった。
 こうした事態を重く見た国家保安委員会KGB議長ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフは、機能不全に陥った国家を立て直すため、ソ連共産党書記長に就任した。KGBは世界から豊富な情報を集めていたため、ソ連がテクノロジーに遅れ、深刻な経済危機にあることを早くから理解し、社会主義体制が崩壊の危機にあることを熟知していた。アンドロポフは、同郷の後輩であるゴルバチョフを政治局員に引き立て、「加速」「規律」「再建」(当時はまだペレストロイカという言葉はなかった)を旗印にして腐敗との闘いを率いた。アンドロポフの戦略は、「西欧諸国から支援を取り付けること」「欧州をロシアの味方とすること」であったが、志半ばにして病気で急逝してしまい、ゴルバチョフにその改革の精神が受け継がれた。
 ゴルバチョフは、社会主義を根底から見直す必要があることを認識しており、アンドロポフの「加速」「規律」「再建」を「ペレストロイカ」と言い換えて改革を推進した。当時の腐敗・汚職はすさまじく、司法当局の者たちでさえ、身の危険を感じるような事態だったため、KGBは水面下で司法官たちの身を守った。ゴルバチョフは、時代遅れのイデオロギーが基礎となっていた崩壊寸前の社会・経済システムを取り壊し、市場経済に支えられた新しい制度を取り入れるために抜本的な改革に取り組んだ。だが、共産党とノーメンクラトゥーラら特権階級の抵抗は無視できるものではなく、長年、全体主義で凝り固まった巨大な帝国を改革するのは容易なことではなかった。ゴルバチョフは、一方ではマルクス・レーニン主義の信奉者であると言いながら、もう一方では、それまでの共産主義体制の壊滅を目指すという難しいかじ取りを任されたのだ。
 
ゴルバチョフ氏とはいったい何者だったのか
 ゴルバチョフの「グラスノスチ」は、ロシア人にそれまで考えられなかったほどの自由をもたらしたが、結局、ロシア人は自由の使い方を知らなかった。「ペレストロイカ」は準備不足と既得権者の激しい抵抗により中途半端に終わり、人々の脳裏に残ったのは生活水準の劇的な低下でしかなかった。結局、ロシア人にとっては、ゴルバチョフは国家の破壊者でしかなかったのだ。
 「帝国の復活」を目指すプーチン率いるロシアがウクライナを再び支配下に置こうとしている今、ウクライナのソ連邦からの離脱にゴルバチョフがどう対応したかが改めて問われている。当時、ゴルバチョフは、ウクライナの独立要求は「自殺に等しいナショナリズムだ」と言って、ウクライナの連邦離脱には最後まで抵抗した。そして「ソ連崩壊はクーデターによるもので犯罪にほかならない」と語り、2014年にロシアが武力でクリミアを併合した際には、国際社会の激しい非難にもかかわらず、この動きを強く支持した。結局、ゴルバチョフは、西側で評価されているような「東西対立を平和的に終焉させた偉大なる政治家」ではなく、アンドロポフの姿勢を受け継いでKGBの支援を受けた単なる帝国の後継者でしかなかったのだ。(参考:ミハイル・ゴルバチョフ著『わが人生』(東京堂出版)、エレーヌ・ブラン著『KGB帝国』(創元社))