1.はじめに
安倍晋三元総理が銃弾に倒れてから3ヵ月が経とうとしている。同じ時期、実は私も自衛隊出身の某候補者を応援するため、街宣車と共に九州内を駆け巡り、街中では道行く人に手を振り、声を掛け、はたまた応援弁士として、自衛隊の駐屯地や基地、官舎地区等の前で現職自衛隊員やその家族に呼び掛けていたが、本事案を報道で知った瞬間、その状況が鮮明にイメージ出来たこともあり、大変ショックを受けたと同時に、安倍元総理のご無事を只管祈るばかりであった。しかし、多くの国民の願いも虚しく、その数時間後にご逝去された。安倍元総理が総理在任の間に残された素晴らしい業績の数々は、周知の通りである。
本稿では、職務上少なからず接点のあった元“一自衛官”として、また“一国民”として、以下のトピックとともに、安倍元総理への感謝の気持ちの一端を表現できれば幸いである。
2.「自由で開かれたインド太平洋構想(FOIP)」
「自由で開かれたインド太平洋構想(FOIP)」は、安倍総理(当時)が2016年8月の第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)で世界に先駆けて提唱されたものであり、アジア太平洋からインド洋を経て中東・アフリカに至るインド・太平洋地域において、法の支配に基づく自由で開かれた海洋秩序を実現することの重要性を示すこの構想は、米国のトランプ前大統領やインドのモディ首相からも絶賛され、彼等が好んでこのフレーズを使用する等、外交・安全保障における“共通言語”となり、6年以上が経過した今も色褪せることはない。小生が統合幕僚副長当時、河野統幕長(当時)と共に、約36ヵ国の陸海空軍高官の表敬を受け、また防衛大臣に随行し、国外で政府や軍高官を表敬することも多々あり、安全保障環境全般を語る際には、決まってこのフレーズが共通認識となり、その後の意見交換が大変スムースにいったと記憶している。特に、小生が西部方面総監の職にあり、「防衛省・自衛隊代表団長」として訪中した際にも、中国人民解放軍東部戦区司令員(大将)への表敬・懇談では、このフレーズから入り、共通認識を得た後、東シナ海情勢(尖閣諸島問題等)を巡り、激しいやり取りをしたことを今も鮮明に覚えている。
3.自衛隊への情愛
(1)“自衛隊と共にある”最高指揮官
安倍元総理は、在任間、自衛隊記念日(陸上自衛隊)観閲式に観閲官として3回参加されたが、特に、平成30年度陸上自衛隊観閲式における訓示では、「徳之島の緊急患者空輸」の話を取り上げて頂いた。任半ばにして亡くなられた建村機長以下4名の透徹した使命感を称え、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える。諸君の崇高なる覚悟に、改めて、心から敬意を表します。… 私は、自衛隊の最高指揮官として、諸君と共に、国民の命と平和な暮らしを守り抜き、次の世代に引き継いでいく。… 隊員諸君。 私と日本国民は、常に自衛隊と共にある。その誇りを胸に、自衛隊の果たすべき役割を全うして下さい」と述べられ、前回(平成28年度)から、力強く「自衛隊最高指揮官、内閣総理大臣 安倍晋三」と述べ、訓示を結ぶ。これほどまでに、常に自衛隊に心を寄せ、温かい眼差しを向け、隊員の士気を鼓舞して頂いた「自衛隊最高指揮官」はいなかったと記憶している。
(2)防大卒業式における「異例の待機」
國分良成前防衛大学校長も、最近の手記に認(したた)められているが、防衛大学校の卒業式に参列される総理大臣等は、式典終了後、卒業生が防大の制服を脱ぎ、陸海空自衛官の制服に袖を通し、任命式に再び登場する迄に中座されるのが通例であった。平成25年度の卒業式典時、安倍総理(当時)は、國分学校長の直接の要請(陸海空自衛官に任官した彼等の勇姿を是非ご覧頂きたい)を快諾、「異例の待機」となった。その間に陸海空の幹部候補生が新たな「矜持」を身に纏い、任命式に臨む「将来の金の卵たち」の晴れ姿を前に眼を細め、我が子を見守るような優しい眼差しの安倍総理。その姿を式典会場で拝見した小生(当時、陸幕教育訓練部長)は、「記念すべき歴史の一場面」に立ち会えたという高揚感に包まれ、また卒業生として誇らしく思った次第である。
4.被災者に寄り添う
(1)東日本大震災等からの復興
安倍総理(当時)は、就任直後の平成24年12月にまず福島県を、その後平成25年1月には宮城県を、更に平成25年2月には岩手県・宮城県を各々訪問。「被災地の心に寄り添う現場主義」「閣僚全員が復興大臣である」とのお考えから、被災者に寄り添う気持ちを常に堅持されていた。テレビでも報道されたが、仮設住宅等に収容されて被災者のお見舞いに際しては、被災者の方々の寄り添いたいというそのお気持ちから、安倍総理自ら跪き、目線を合わせ、時間を忘れて被災者の話に聞き入り、時に励ましの言葉を掛ける。まさに『有言実行』する安倍総理の姿が大変印象的であり、これは、西日本豪雨や北海道胆振東部地震の時も同様であった。
(2)球磨・人吉豪雨災害(「令和2年7月豪雨」)
私が西部方面総監を退官する約2ヵ月前、令和2年7月3日から4日にかけて、幅約70km、長さ約280kmに渡る「線状降水帯」を伴う梅雨前線が熊本県南部を襲った。その2日間で球磨川流域の多くの雨量観測所では、7月の平均雨量1ヵ月分に相当する猛烈な雨が球磨・人吉地区に容赦なく降り注ぎ、球磨川と複数の支流は計画水位や氾濫危険水位を超過。球磨川があれよあれよという間に溢水して、球磨村にある特別養護老人ホーム「千寿園」の入居者14名を始め、球磨川流域で約50名の方々がお亡くなりになる等、熊本県南部に甚大なる被害をもたらした。
安倍総理(当時)は、被災状況を視察するため13日午前中、自衛隊機で鹿児島空港に到着、車両で熊本県南部の被災地に入り、先ずは14人が犠牲になった球磨村の「千寿園」を訪れ、黙とうを捧げた。その後、球磨村の臨時役場(現地対策本部)内で、球磨村長、人吉市長から今回の豪雨による被災状況や復旧・復興に向けた国への要請を武田復興担当大臣と共に聴取した後、人吉市内の避難所を視察することになった。被災10日後の避難所は、依然沈痛な雰囲気に包まれ、被災者は豪雨から辛うじて助かったとの安堵感はあるものの、今後の不安からか、その表情は暗く苦渋に満ちているものだが、安倍総理が慰問されるとの情報が伝わると、被災者の表情は一変、避難所が色めき立つ等、被災者はご視察を待ちわびていた。避難所内では、安倍総理からの直接のお声掛けに涙ぐむ被災者も多数おられた。安倍総理には、被災者を元気にし、生きる希望を与える不思議な“オーラ”が漂っていたと感じた次第である。
5.おわりに
我が国の内閣総理大臣は、初代の伊藤博文以来136年間で延べ101人を数え、その任期は、平均約1.36年(495日)である。一方、安倍元総理は、第90代、第96-98代の内閣総理大臣として4次内閣に亘り、政権を運営し、その任期は我が国憲政史上の最長不倒、8年10ヶ月(3,188日)にも及んだ。その間、卓越したリーダーシップをもって内政・外交安全保障・経済でも数々の輝かしい功績を残され、国際社会に積極的に貢献するとともに、我が国の地位の向上にも献身された。ロシアによるウクライナ侵略や台湾海峡の緊張に伴う日中関係、北朝鮮の動向等東アジア、そしてインド太平洋地域における安全保障環境がより一層厳しさを増し、我が国も3年にも及ぶコロナ禍からの経済回復等を目指す中、「拉致問題の早期解決」や「憲法改正」、或いは防衛戦略3文書を踏まえた「防衛体制の強化」等の牽引役として、引き続き重要な役割を大いに期待されていたその矢先、安倍元総理は、我々の目の前から“突然”姿を消した。
強いリーダーには、ある意味"冷徹さ”が必要とされるものだが、安倍元総理は、その厳しさを体現される一方で、自衛隊の最高指揮官として自衛隊員の活動を温かく見守り、被災者に親身に寄り添い、常に日本国民の繁栄と安寧を願ってやまなかった。そんな安倍元総理が醸し出す温かみのある、あの“佇まい”に接する事は、もう二度とないのである。
最後に、改めて安倍元総理のご冥福を心よりお祈り申し上げるとともに、我が国が今後とも平和と繁栄を享受する「世界に冠たる国家」であり続けるよう、一元自衛官、そして一国民として、微力ながら努力して参る所存である。