同盟の証
2月8日、ウクライナのゼレンスキー大統領は英国を訪問し、追加の軍事支援として戦闘機の供与を求めた。戦車の供与を認めた西側諸国も戦闘機の供与には頭を悩ませている。戦闘機供与はそれほど重大な意味を持つ。裏を返せば、戦闘機の供与や共有といった行為は、同盟の証であるとも言えよう。
実は82年前の英国も今のウクライナと同じような立場にあった。1941年4月23日、英国議会貴族院において、航空機生産閣外相のビーバーブルック卿は次のように述べた。
航空機の到着の遅れは深刻ではない。空冷エンジンの遅れは解決した。米国製のエンジンは世界最高で、最も価値があり、最も役に立つ。戦闘機と爆撃機は米国に送られている。全ての型の航空機が送られている。間もなく、我々は米国からの大規模な輸送によって航空機を受け取るだろう。その多くは作戦で使用できる。英空軍に、米国とカナダで組み立てられた約1,000機の航空機(ハリケーンも含む)を送っている。それらは高性能で、すぐに飛び立ち戦える状態にある。(The Times, 24 April 1941)
当時、米国はまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、英国はドイツとの航空戦で守勢に立たされていた。前年のドイツ空軍の大攻勢には何とか持ち堪えた(バトル・オブ・ブリテン)が、ロンドンへの大規模空襲は1941年5月まで続いた。当時、英国の頼みの綱は米国からの航空機支援であった。米国はドイツと直接戦火を交えてはいなかったが、英国に軍事援助を行っていた。この状況は現在のウクライナ戦争と重なって見える。
今ウクライナが最も欲するものは、米英の戦闘機である。だが、米英はそこまで踏み切れないでいる。現在の英国は、ウクライナがどんなに戦闘機を欲しているか、自身の経験からよく理解しているはずだが、同時に、その先に何が待っているかも了知しているのであろう。かつて英国に航空機を援助した米国は、その後、大戦に参戦した。それは日米開戦を経ての参戦であり、必然英国の戦線は極東にまで広がった。まさしく世界大戦となったわけだ。英国はこれで植民地を失うことになった。見方を変えれば、戦闘機を供与・共有することには、運命を共にする覚悟が求められる。この覚悟こそが同盟の証とも言えるのである。
日英同盟破棄とセンピル教育団
前述のビーバーブルック卿の答弁は、貴族院議員センピル卿の質問を受けてのものであった。実はこのセンピルという名は、日本の航空史に欠かすことができない存在である。センピルは日本海軍の招きにより1921年9月から、センピル教育団を率い日本の海軍航空隊を教育し、その基礎を作った人物だ。当時の日本の航空技術は「模倣期」にあり、1930年代に次々に名機を生み出した「自立期」はこの教育団がもたらしたノウハウや技術を基盤に成立したものと言える。
1920年代、日本の航空技術は明らかに欧米の後塵を拝していた。理由は簡単で、日本は第一次世界大戦の欧州戦線を経験していなかったからである。欧州戦線には航空機が実戦投入され、欧州の航空技術は飛躍的に向上していた。同時に、欧州の航空産業は戦後、不況に喘ぐことにもなった。そんな状況下の1920年、日本海軍は英国に航空教育団の派遣を要請したのである。英国の空軍省も航空産業界もこれに賛成だったが、海軍省がこれに反対した。その妥協として、退役軍人の身分での日本派遣となった。これは、これに先立つ1919年1月から翌年4月までの間、陸軍がフランスから招聘したフォール航空教育団が仏政府と仏陸軍の全面支援を受けていたのとは対照的であった。
英海軍が現役将校の派遣に反対したのは、恐らく2つの理由があった。1つは、日本海軍の実力をよく知るが故に、それ以上の強化は避けたかったこと。もう1つは、1921年11月から開催される予定のワシントン会議を前にして、米国への配慮が求められたこと。米国はワシントン会議で日英同盟を破棄させる意向を持っており、加えて、会議の重要な議題には海軍軍縮があった。第一次大戦後、軍縮を進めたい英国としては米国を刺激したくなかったに違いない。
民間人になったとはいえ、センピルは英国を代表する航空家で、英航空産業との太いパイプも持っていた。彼の率いた教育団の功績により、日本の航空技術の水準は飛躍的に向上した。だが、残念なことに、これは日英関係が下り坂に差し掛かった時期の出来事であった。日英の航空協力は長続きせず、後に日本は航空分野でもドイツと手を結ぶこととなる。
新日英同盟へ
日英同盟が正式に失効してからちょうど100年後の2023年1月、日本と英国は「日英部隊間協力円滑化協定」に署名し、準同盟国となった。現在の日英は100年前とは逆の方向、つまり関係強化の方向に進んでいる。その「新日英同盟」の象徴が、2022年12月9日に日英伊が合意した次期戦闘機の共同開発と言えよう。
航空自衛隊「F2」の後継機の開発事業と英国が主導する「ユーロファイター・タイフーン」後継機の「テンペスト」開発事業のタイミングが合った。タイフーンは、NATO加盟国のうち英国、ドイツ、イタリア、スペインのヨーロッパ4ヵ国が1980年代以降共同開発した戦闘機だが、現在欧州では、英伊の「テンペスト」事業とは別に、フランス、ドイツ、スペインの3ヵ国が次世代戦闘機「NGF」の共同開発を進めている。英国としては新たなパートナーが必要だったところに、同じくパートナーを模索していた日本が現れた。
実は、2022年12月の日英伊共同開発合意の前に、日本企業は既に動き出していた。2021年12月22日、英ロールス・ロイス社は次期戦闘機用エンジンの実証機の開発・提供を日本のIHIと共同で実施すると発表した。当然、次期戦闘機とは日本では「F-X」、英国では「テンペスト」を意味する。2022年7月には、電子機器メーカーのレオナルドUKと三菱電機が、次期戦闘機用の新電子センサー・システムの開発へ向けた作業分担などで合意したと発表した。2022年12月の日英伊共同開発合意の際、これらの企業は当然名前を連ねていた。日本側では三菱重工業が機体を、IHIがエンジンを、三菱電機が電子機器を担当し、英国では機体をBAEシステムズ、エンジンをロールス・ロイス、電子機器をレオナルドUK、イタリアでは機体と電子機器をレオナルド、エンジンをアビオエアロが担当することとなった。
100年前、日本の三菱は英国のソッピース社から技術支援を受け、航空機を生産していた。その後ソッピース社を清算したトム・ソッピースは、ホーカー・シドレー社設立に参画し、会長まで務めた。同社は、第二次大戦で活躍した、ハリケーン、タイフーン、テンペストといった戦闘機を世に送り出した会社で、後に他の数社と統合されブリティッシュ・エアロスペース(BAE)社となった。この系譜が現在のBAEシステムズに繋がっている。つまり、現在英国が運用しているタイフーン、開発しているテンペストは、ソッピースのDNAを受け継ぐものと言える。このDNAを受け継ぐ新「テンペスト」を日本の三菱が共同開発するというのも、何か不思議な縁を感じさせる。
英国は航空機黎明期から技術とノウハウを培ってきた。戦後、航空産業が衰えてしまった日本が英国から学ぶべきことは多い。奇しくもこの構図は1920年代と同じである。当時は日英同盟が破棄され両国にすきま風が吹き始めていたが、現在は新日英同盟が謳われるほど日英関係は緊密になっている。この新型戦闘機の共同開発プロジェクトが成功した暁には、日英関係は同盟国として2度目の黄金期を迎えることだろう。