《日英関係コラム Vol.5》
英国に見る女系継承の現実

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研究員 橋本量則

 日本と英国は、ユーラシア大陸の東端と西端に浮かぶ島国で、歴史ある皇室、王室を戴くという共通な点を持つ。このことから日本には英国に対してある種の親近感を持っている人が多いようである。それはそれで大変結構だが、最近、英国は女王や女系継承を認めているのに、日本が女性天皇や女系継承を認めていないのはおかしい、英国王室を見習うべきだという声も聞こえてくる。だが、そもそも、女系継承を認めていなければ現英国王室はとうの昔に途絶えていた。神話の時代から現在まで男系で続いてきた日本の皇室とは、何に重きを置いているかで全く異なるのである。そんな英国王室の女系継承の歴史を簡単に見ていきたい。
 
戦乱をもたらした後継者問題
 現英国王室の直接の祖とされる征服王ウィリアムは1066年、フランスのノルマンディから英国に上陸し、アングロサクソンの王ハラルドをヘイスティングスで打ち破ったことで英国王となった。なぜこのような事態に至ったのか。ウィリアムがフランスから渡ってくる前、英国にはエドワード懺悔王がいた。この王はカトリック教会の聖人に列せられているほどキリスト教に身を捧げた人物で、かの有名なウェストミンスター寺院を建てたことでも知られている。だが、一生純潔を貫いたので、嗣子がいなかった。案の定、彼の死後、後継者問題が起こった。この英国内の混乱に乗じ、ノルマンディ公ギョームが英国を征服し、ウィリアム1世として即位したわけだ。
 王位継承には正統性が必要であったが、その根拠にしたのは、エドワードの母エマがノルマンディ家出身だったことのみであった。確かにエドワードとウィリアムは血縁ではあったが、ウィリアムが英国王家の血統であったわけではない。つまりこれは、母方が血統を受け継ぐ「女系」どころの話ではない。これは正しく「征服」であった。このような継承から始まった現英国王室にとって、「男系」「女系」にどれほどの意味があったか。
 
他国を巻き込む女系継承
 征服王ウィリアム1世の跡を継いだウィリアム2世は独身のまま狩りの最中事故死したので、弟が王位を継ぎ、ヘンリー1世となった。ヘンリー1世は娘マティルダを後継者に指名したが、ウィリアム1世の娘アデルとフランス貴族ブロワ伯の間に生まれたスティーブンが異議を唱え、英国王として即位する(1135-1154年)。これをブロワ朝と呼ぶが、英国内は混乱し、無政府時代と広く呼ばれる。スティーブン派とマティルダ派の争いの結果、スティーブンが嫡男を失ったこともあり、マティルダが嫁ぎ先のフランスのアンジュー家で生んだ息子アンリを後継者にすることで問題は解決した。こうしてフランス貴族のアンジュー伯アンリが英国王ヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝(アンジュー朝)が始まる。このように英国王家には当初から男系女系の拘りというものがない。とは言っても、女系で王位を継承した際、王家の家名つまり王朝名を変える原則は守ってきた。
 十字軍の遠征で知られるリチャード1世(獅子心王)はプランタジネット朝2代目の国王である。リチャード1世は、ヘンリー2世とフランスのアキテーヌ女公アリエノールとの間に生まれた。この女性の前夫はフランス王ルイ7世であったが、アリエノールの所領はフランスの3分の1ほどあり、フランス王家の所領よりも広大だった。ヘンリー2世はアリエノールと結婚することで、フランスのアキテーヌの地を手に入れ、その2人の子であるリチャード1世は父と母から英国とフランスの広大な領地を相続したのである。女系継承なくして、この英仏を跨ぐ広大な「アンジュー帝国」の成立はあり得なかった。
 
英国の内紛
 その後、英国ではプランタジネット朝の流れを汲むランカスター朝、ヨーク朝が続くが、ヨーク朝最後の国王リチャード3世はランカスター派との戦いに敗れ、30年続いた両家による「薔薇戦争」は終わった。リチャード3世を打ち破ったヘンリー・チューダーがヘンリー7世として即位した(チューダー朝)が、王位継承の根拠は、彼の母親がランカスター家傍系のボーフォート家の出身であったことであった。つまり女系継承である。
 父はリッチモンド伯エドマンド・チューダーでフランス王家の血も引く家柄ではあった。だが、これも、元は下級貴族に過ぎなかった祖父オウエンがヘンリー5世の未亡人キャサリン(フランス王女)と結婚したためである。やはり、継承の根拠が弱いと考えたのか、ヘンリー7世は、ヨーク朝のヘンリー4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚することでランカスター家とヨーク家の和解を実現し基盤を固めた。
 このように英国の王位継承には戦争や内紛が付き物で、勝者が男系女系関係なく王位を継承する例がしばしばあった。強者にとっては、女系であっても血縁によって王位継承権を主張できる方が都合がよかった。ただ、この時点で女王はまだ現れていない。
 
女王と継承問題
 英国で初めての女王が即位したのはこのチューダー朝の時代である。かの有名なヘンリー8世の王女、メアリー1世が英国初の女王であり、その跡を継いだ異母妹エリザベス1世も女王だ。この2人には子がおらず、王位は隣国のスコットランド王ジェームズ6世に渡り、英国王ジェームズ1世として即位する。これも女系継承で、この王朝はスチュワート朝と呼ばれる。この名前は、皮肉なことに、エリザベス1世に対し、「庶子」と言い放ち、英国に亡命しているにも拘らず女王暗殺未遂事件を起こし処刑されたメアリー・スチュアート、つまりスコットランド女王メアリー1世に由来する。このスコットランド女王は、ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと結婚したことから、メアリー・スチュアートと呼ばれた。
 実は、ヘンリー8世の妹マーガレットがスコットランド王に嫁いでいたため、メアリー・スチュワートは英国王家の血を引いていた。そして彼女はエリザベス1世に対して、正統な英国王でないと言い放ち、自らが正統な英国王位の継承者であると主張したのである。確かに、エリザベス1世の母アン・ブーリンはヘンリー8世の愛人で、その2人の結婚も曰く付きのものであったため、エリザベスを「庶子」と見なす人々がいたのは確かだ。当時、男系か女系よりも嫡子か庶子かの方が後継問題としては余程重大であった。かくして、メアリー・スチュアートとエリザベスの確執が始まったのである。皮肉なことに、生涯未婚で通したエリザベス1世が自らの継承者に指名したのがメアリー・スチュアートの息子スコットランド王ジェームズ6世だったというわけだ。
 
その後の王朝交代
 その後、英国王室は2回の女系継承を行った。スチュワート朝最後のアン王女は、多産であったがいずれの子も成人せずに夭折したため後継者がおらず、ドイツからハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが英国に迎えられ、ジョージ1世として即位した(ハノーヴァー朝、1714年)。勿論、ジョージ1世の母ゾフィはスチュアート朝の血筋であった。
 このハノーヴァー朝の最後の国王がかの有名なヴィクトリア女王である。ヴィクトリアはドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ家のアルベルト(英名アルバート)を夫に迎え、4男5女をもうけた。その中の長男がエドワード7世として即位し、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝が始まる(1901年)。だが、1917年、第一次大戦の敵国ドイツの家名を用いるのはいかがなものかということで、家名をウィンザー家に変更した。
 ウィンザー家のエリザベス2世は、ギリシャ王族の血筋のフィリップ・マウントバッテンと結婚し、その長男が現在のチャールズ3世だが、この即位により、英国王家の正式な家名はマウントバッテン=ウィンザー家となっている。
 
結びに
 このように英国王室は女系継承で保たれたきたと言っていい。だが、誤解してならないのは、王女達が嫁いだ先や、英女王に王配を送り出した家は、王家や公家であり、決して庶民の家ではなかったことだ。つまり、欧州の王室は互いに婚姻によって血統をプールしてきたのである。そして、継承問題が生じると、他国の王室にプールしてある自分の血統を引き出すのである。それは女系継承となるが、男系としても王侯の血統を保っている。
 このような英国の歴史や欧州王室のシステムを知った上で、日本の皇室にとって女系継承が本当に必要な制度になり得るのか議論してもらいたいものである。