《日英関係コラム Vol.8》
日英「歴史の棘」を抜く②
「痩せ細った」英軍捕虜の真相

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研究員 橋本量則

 BC級戦犯裁判を研究していると、捕虜にゴボウを食べさせた日本兵が、「木の根」を食べさせ虐待したとして戦犯裁判で罰せられたという話は本当か、とよく聞かれることがある。英軍が行った戦犯裁判に限って言えば、このような事例はない。
 だが、ゴボウなどよりも余程捕虜の生死に影響を与えた食品があったことはあまり知られていない。その食品とは意外にも、日本陸軍の主食、コメであった。
 日本軍による捕虜虐待の象徴として、褌一枚で骨と皮だけに痩せ細った英軍捕虜たちの写真は今なお英国のメディアに頻繁に登場するが、なぜ捕虜たちがそこまで痩せ衰えていったのか。その背景をよく調べてみると、実はコメが様々な問題を引き起こしていたことがわかった。
 本稿は、どのようにしてコメが捕虜たちの健康に問題を引き起こしたのか述べてみたい。
 
捕虜の口に合わないコメ
 第一に、コメは捕虜たちの口に合わなかった。彼らはその調理法も知らなかった。現在では、世界中で日本料理や中国料理が食されているため、西洋人もコメを食べるのが当たり前のように思われがちだが、実は当時、西洋人はコメをほとんど食していなかった。英国人はデザートのプディングにコメを使うが、主食としての大量のコメには慣れていなかった。そんな捕虜たちの日記にはコメが不味いという記述が多く見られる。当初、彼らの中には「コメには味がない」と言って、食べることすら拒否する者も多かった。そこには、「白米を食べると脚気になる」という生半可な知識も影響していた。
 だが、日本軍の捕虜となったからには、主食は日本軍の主食であるコメになる。しかも、日本人にとって白米は一種の信仰の対象であり、陸軍は兵士に対しこれを存分に食べさせることを約束していた。つまり、白米偏重の日本陸軍のもとで、コメ嫌いの捕虜たちがコメを主食として生活を送らなければならなくなったのである。
 捕虜生活の当初コメを食べることを拒否した捕虜たちは当然体力を落とすことになったが、それによって失った体力は結局最後まで回復することはなかった。一度体力を落としてしまうと、その分を補い、回復させるだけの食料はもう手に入らなかったのである。
 
コメを消化できない捕虜
 だが問題は、単にコメが捕虜たちの口に合わないということだけに留まらなかった。西洋人の捕虜たちは体質的にコメを十分に消化できなかったのである。肉食中心の西洋人の消化器官には、コメなどの大量の炭水化物の消化が難しかったのである。つまり、米食に順応するまでは、味を我慢しつつコメを食べても、消化不良を起こしてしまい結局は体に吸収されないのである。比較的環境の良かったシンガポールの捕虜収容所でも多くの者が腸炎を患った。そんな中、衛生環境の悪化に伴い赤痢が発生し、捕虜たちは消化器官に深刻な問題を抱えるようになっていった。
 これはまさに日本と西洋の間の食文化の差異に起因するものである。人間の体質はその食文化の上に築かれているわけである。
 
泰緬鉄道建設工事
 当然、体力の低下は、免疫力の低下も招いていった。このような状態の捕虜たちがタイとビルマを繋ぐ泰緬鉄道の建設のため、労働に駆り出されることになった。しかも、タイとビルマの間に横たわる人跡未踏のジャングルは疫病の巣窟でもあった。体力と免疫力を大きく低下させている捕虜たちがそのようなジャングル内での重労働に従事すれば、どのような結末を迎えるか、誰でも容易に想像できるだろう。鉄道建設に派遣された捕虜は総勢6万人。そのうちの1万2千人が命を落とした。
 タイ・ビルマ国境のジャングル地帯ではマラリアやコレラといった病気が大きな脅威になったが、実は、それよりも赤痢や胃腸炎の方がより深刻であった。赤痢と胃腸炎を合わせれば捕虜の死因の第1位になる。赤痢・胃腸炎が危険な理由は、栄養の摂取が止まると人体は自らの肉体を分解してエネルギーを得ようとするためである。そのため、急激に体重が低下し、さらに体力を失ってしまう。これを止めるには、体が吸収しやすい食料をできるだけ多く摂取することだ。
 だが、泰緬鉄道の建設現場、つまりジャングルの奥地では補給が途絶えがちで、慢性的な食料不足、医薬品不足に悩まされていた。唯一、豊富にあった食料が白米であった。タンパク質やビタミンを摂取できる食物はなく、捕虜が失った体力の回復は望めなかった。
 さらに、この白米のみの食事は別の病気も引き起こした。脚気である。当時、脚気は日本軍特有の病気で、その背景には日本人の白米信仰があった。その上、玄米より保存ができ、嵩も減らせる白米は遠征の輸送にも適していた。だが、それがビタミンB1の欠乏を招いた。日露戦争における戦闘での日本軍の戦死者は約4万人といわれるが、それとは別に2万人が脚気で死亡している。そんな日本軍の管理下に置かれた捕虜たちにも、当然、脚気に罹るものが続出した。
 
食への渇望
 タイのジャングルで捕虜たちはわずかな所持品を現地の行商人に売り、現地人が出す屋台で食べ物を買い求めた。所持品を売り尽くしてしまうと、残るはシャツとズボンの一式のみとなるが、これは寝る時にとっておくため、昼間の作業には褌一枚で出るようになった。それでまた蚊が媒介するマラリアに罹りやすくなる。
 捕虜収容所では、金欲しさ、コメ以外の食料欲しさで盗みが横行していた。当然、被害者は同僚の捕虜たちである。ブーツや毛布、蚊帳はブラックマーケットで高値で取引されたため盗みの標的となった。毛布や蚊帳を盗まれ、その結果マラリアに罹った捕虜も多くいた。
 大切なブーツを盗まれないように捕虜たちはベッドの上に自分のブーツを置いて寝ていたが、それがコレラ感染の拡大に繋がった。そして、コレラが発生すると、感染拡大を防ぐため日本軍は捕虜に対して川での水浴びや、現地人との接触を固く禁じた。これにより、捕虜の栄養状態と衛生状態が悪化することとなった。この悪循環の責任の一端は、日本側だけでなく捕虜側にもあったと言える。
 
むすび
 泰緬鉄道建設工事に駆り出された捕虜たちが苦難を味わったことは事実である。だが、褌一つで骨と皮だけに痩せ細った捕虜たちの写真の裏には、このような複雑な事情が存在するのである。食料事情一つをとってみてもこのような複雑さである。それは日本軍と英国軍の文化の違いによってもたらされたものであるが、この文化の違いを英国人も日本人も長年見落としてきた。誤解は未だに解けてはいない。
 急な主食の変化は人体に多大な影響は及ぼす。それは過酷な状況になればなるほど顕著になる。この教訓から1949年にジュネーブ条約が改訂された際には、捕虜には馴染みの主食を提供することが規定された。