《日英関係コラム Vol.9》
ロイヤル・ファミリーが繋ぐ日英の絆

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研究員 橋本量則

日英の共通点
5月6日、英国王チャールズ3世の戴冠式が執り行われ、英国王室に高い関心を持つ日本メディアもこれを大きく報じた。
 
西欧の国王の戴冠式は、日本の天皇の即位の礼にあたるとされるが、もう少し正確に言えば「即位の礼・大嘗祭」にあたるものである。つまり、何が言いたいかというと、現代においても、西欧の国王や日本の天皇がその位につくにあたっては「神聖なる力」が不可欠であるということだ。
欧州では戴冠式はキリスト教会で執り行われ、聖職者(神の代理)が王冠を国王の頭上に授けることになっている。実は、その戴冠の前に最も重要な儀式が行われる。聖油を新国王に注ぐ塗油の儀式だ。それには、聖化して俗界から引き離す聖別の意味がある。これにより、国王は俗界から切り離され、神聖なものとなる。この神聖な儀式は非公開である。
 
これを時代錯誤だという声もあろう。だが、議会制民主主義を生み、産業革命を成し遂げた英国は、国王の「聖なる地位」を守り続けている。
 
これが政教分離の原則に反すると考える人は、政教分離ができた経緯を知るべきであろう。そもそも政教分離(Separation of Church and State)とは、キリスト教会(ローマ教会)による国内政治への干渉を止める手段であった。中世ヨーロッパではローマ教皇を頂点とするキリスト教会の力が大きく、神の名において宗教戦争も繰り返されてきた。政教分離はそのような惨禍を繰り返してはならないとする欧州の特殊事情から生まれた、1つの政策に過ぎない。絶対的な「原理」などではない。
 
政教分離といっても、教会と国家の関係を全て否定するものではない。事実、英国の国家元首である国王の戴冠式はウェストミンスター寺院において、カンタベリー大主教の手で行われた。
 
大体、どの社会でも権威というものは「神」から生まれる。神が権威の正統性の源泉なのである。だから、人々は聖なる儀式を経ていない国王を認めないし、国王も聖なる立場に立つからには、身を慎み、公のために奉仕することを神に誓うことになる。つまり、神と国王と国民(臣下)との間にモラルが成立するのである。このモラルこそが英国を民主主義国に導いたとは言えないだろうか。
 
同様のことは日本の皇室にも言える。その証が大嘗祭という我が国最重要の神事である。つまり、日本の天皇も英国の国王も神聖性を持つ存在ということで共通しているのである。日本の神道では天皇が最高位の神官を務める一方で、1534年にローマ教会から離脱し英国国教会を創設した英国では、その首長を英国王が務めてきた(聖職者での最高位はカンタベリー大主教)。
 
ここで、もう1つ日本の天皇と英国の国王に重要な共通点が見出せる。それは、その神聖性が大陸の宗教的権威の影響下にないことである。つまり、日本も英国も精神的、倫理的な面で大陸から指図されずに生きて来れたのである。
 
これは、日英両国が大陸の観念主義から距離を置いているとも言えよう。英国は経験主義、功利主義の国であり、実利を重んじる。一方、日本の神道も生産(むすび)、つまり現世での利益(りやく)をもたらすことを重視する。つまり両国とも聖なるものを信仰するが、それは観念的・絶対的な信仰ではなく、人間が生きていく上で必要な「利」すなわち「幸福」を重視する。観念から離れて「利」を重んじることにおいて、日英はよく似ている。
 
歴史的に、もう1つ同様の国が存在した。中世に通商海洋国家として栄華を極めたベネチアである。ベネチアは「利」を追求したが、もちろんキリスト教を捨てたわけではなく、時には十字軍に協力もした。この「利」を追い求めつつも確たる倫理観を持つ姿勢こそが、日・英・ベネチアなどの海洋国家に共通する素地となっていると言えないだろうか。
 
日英両国を繋ぐロイヤル・ファミリー
そして、遠く海を隔てた、ユーラシアの両端に位置する英国と日本が結んだ絆を大切に守り続けてきたのが、両国のロイヤル・ファミリーであった。
 
第2次大戦によって日英の絆は完全に絶たれたと思われた。
 
日本が主権を回復した1952年に日英は国交を回復するが、英国の国民感情は日本に対して非常に冷淡であった。そんな中で、1953年、エリザベス2世の戴冠式に当時皇太子であった今の上皇陛下が参列できたことは、日英関係の改善に留まらず、日本の国際社会復帰をも後押しした。
 
実は戦後の英国王室と日本皇室の交流は、非公式ながら1948年にまで遡る。この年の1月、東南アジア特別高等弁務官としてシンガポールにいた英国のキラーン卿が私用で東京を訪れた。GHQのマッカーサー元帥は丁重にキラーン卿を持て成し、よほど馬が合ったようで、卿に昭和天皇との面会を勧めたのである。これは2人の会話の中で、昭和天皇が皇太子時代の1921年に英国を訪れた際、当時外交官だった若き日のキラーン卿が随行役に任じられ、一緒にスコットランドを旅したエピソードを語ったからであった。
 
後日、皇居を訪れたキラーン卿を昭和天皇ご夫妻が喜んで迎えたことは言うまでもない。このことは、英国政府を驚かせた。当時マッカーサーは外国の要人を昭和天皇に会わせなかった。当時、英国代表(当時、大使は置かれていない)として東京にいたガスコインでさえも昭和天皇に面会したことがなかったほどである。当時、日本には主権即ち外交権はなかったので、それも当然と言えば当然である。
 
キラーン卿との会談の最後に、昭和天皇は「国王陛下によろしく」と言付けた。当然このことは英国政府と英王室にキラーン卿から報告され、英王室はガスコインに対して、「戦後の国交のない状況故、書面で返礼するわけにはいかないが、口頭でなら」と返礼を指示した。これが戦後初めて、英国の王室と日本の皇室、つまり両国が友好的な言葉を交わした瞬間であった。
 
昭和天皇は皇太子時代に英国を訪問した際、ジョージ5世の薫陶を受けた。それ以来、政府や軍部が反英国・親ドイツになろうと、英国への友情を変わらずお持ちだった。そのお心をキラーン卿が橋渡ししたというわけだ。
 
実はキラーン卿は外交官として若い頃に日本に赴任しており、日本のことをよく知っていた。1932年の上海事変の際には、在中国の英国公使として日本の重光葵公使と連携し、事変の収束に向けて尽力した。戦後、重光が東京裁判で起訴された際は、重光を弁護するを陳述書を提出し、有罪判決後は減刑の嘆願運動を他の親日派人士たちと展開した。
 
1953年4月27日、エリザベス女王の戴冠式(6月2日)のために訪英した日本の皇太子・明仁親王をこのような親日派英国人たちが出迎えた。そして5月5日、英国の女王が日本の皇太子を招き、持て成した。これが戦後、日英関係が完全に回復した瞬間となった。奇しくもこの70年後の5月6日にチャールズ国王の戴冠式が行われたのである。
 
このように、英国王室と日本皇室には長い交流の歴史があり、それによって戦後の厳しい日英関係を繋ぎ止めることができたといってよい。両国の絆はわれわれが思う以上に、太く、しなやかである。