生きとし生けるものに無駄はない

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政策提言委員・元参議院議員 筆坂秀世

 兵庫県の丹波篠山に近い猪名川町という山間部で育った私は、30数年前、中学校の同窓会に出席するため帰郷した。11月だったと思う。友人が阪急宝塚線の最寄り駅まで迎えに来てくれた。いよいよ中学校に近づいて行くと、道路の両側は山なのだが、黄金色(こがねいろ)と呼んでいいほどの真っ黄色に染まっていた。「自分の田舎の紅葉はこんなに綺麗だったのか」と目を瞠(みは)った。
 中学生まで毎日見ていた景色なのだが、そんな風に思ったことは一度もなかった。映像は目には入っていたが焼き付けられずに、消去されていたのだ。若い時はそんなものだろう。花鳥風月よりも異性のことやクラブ活動、好きなことの方に関心が高かったはずだ。
 60歳代半ば過ぎぐらいからだろうか。歩いていても、電車やバスに乗っていても、周りの草花など自然に惹きつけられるようになった。自宅の近くに洪水対策用の遊水池があり、カワセミ、大サギ、アオサギ、カワウなどがやって来る。その仕草を観察するのも最近の楽しみの1つだ。色々な動物が懸命に生きている姿は愛おしい。
 これは植物だって一緒だ。今NHKの朝ドラマ「らんまん」のモデルになっている植物学者牧野富太郎博士は「雑草という草はない」と言った。この言葉を発したのは、「樅の木は残った」や「赤ひげ診療譚」などの作品で有名な作家、山本周五郎に対してであった。山本は、作家として売れる前の大正末期から昭和初期にかけて、帝国興信所(現:帝国データバンク)を母体とする雑誌『日本魂』の編集記者を務めていた。
 その山本が牧野博士にインタビューしたとき、「雑草」という言葉を口にしたところ、牧野博士は次のようにたしなめたそうだ。
 「君、世の中に“雑草”という草はない。どんな草にも名前がついている。それを世の中の人は“雑草”だの“雑木林”だのと無神経な呼び方をする。君が“雑兵”と呼ばれたらいい気がするか」
 私が名前も知らない植物であっても、無駄なものは1つも無いのだ。必要だから生まれて来たのだ。これは人間も同じだ。私は30歳代から40歳代前半にかけて衆議院東京1区(千代田区、港区、新宿区)で共産党の候補者をしていた。3回立候補してすべて落ちた。意外に思われるかも知れないが、当時、新宿歌舞伎町は共産党支持者が多かった。共産党系と言われる民主商工会が税金や保健所対応を熱心に行なってきたからだ。大きな共産党後援会もあり、バスを数台連ねて後援会旅行をしたものだ。
 私が参議院議員を辞めた後、知り合いの歌舞伎町のスナックに行くと数人の若い女性が応対してくれた。なぜそんな話をしたのか覚えていないが、私が「みんな自分はこの世には必要でない人間だと思っているかも知れないが、そんなことはないよ。必要だから生まれて来たんだよ。だから自分を一番大事にするんだよ」という趣旨の話をした。するとほとんどの女性が涙ぐんだのだ。生きとし生けるものに無駄なんかないのだ。