中国人の表情が一変したように見える。ヤクザが刑務所を飛び出してきて、怪しい地域を飛び回るのは変わらないが、中国という塀の中だけ見ると何という静けさなのだろう。ひと昔前の塀の中は無数の怖い顔、不気味な顔が充満していた。ほんの一年前には表情が消えて「白紙革命」なるものを生み出した。A4の白紙を持って街を練り歩くというものである。
紙には本来、書くべき文句が書いてあるものだが、それが書かれないところに中国人の怒りと我慢が結集している。石平氏の著書『習近平帝国のおわりのはじまり』(ビジネス社)によると、その意味はこうだ。
「PCR検査はいらない。ご飯は必要だ。文革はいらない。革命は必要だ。領袖(りょうしゅう)はいらない。投票用紙は必要だ。奴隷にはなりたくない。公民になるのだ」
欲するものは適切だが、欲するものが一切手に入らなければ、大衆は絶望する。反抗が無駄だと分かった時、民衆には失望しかない。今の中国はその失望を表現している時ではないか。
中国では二〇一五年まで「一人っ子政策」が採られていたが、その最中の二〇一一年でも約一千六百万人が生まれていた。二〇一三年に習近平が国家主席に選出され、一五年は「一人っ子」政策をやめ、相次いで「二人っ子」「三人っ子」政策を採った。ところが一七年(約一千七百二十三万人)以後、減少傾向に拍車がかかり、二二年には遂に一千万人を切って九百五十六万人まで減少した。要するに一七年から二二年までの五年間に出生数を四五%も減らしてしまった。
日本も一九七八年には百六十四・二万人だった出生数が二〇二一年には八十一・一万人まで半減した。半減するのに日本は四十三年かかったのに、中国はわずか五年である。国が亡びるスピードとしか言いようがない。
日本ではこれから児童手当を高校卒業まで月一人一万円(第三子以降は月一人三万円)とするが、これ以外の少子化対策にも力を入れないと日本も再生の道はないだろう。一方、中国では財力不足により同様の政策の実現は不可能だ。要するに国の展望が全くないのである。展望を開くには周辺国の富を暴力で奪ってくるしかない。
最近、中国の若者の間ではやっているのが、躺平(タンピン)主義というもので、いわば寝そべり主義とでも言うのか。一流大学を出ても未就職率は二一%。このため、①他国の大学を選んで外国企業を目指す②嫁さんの相場が高いので結婚はできない③家でひっくり返って何もしない―となる。
あの怒り顔が柔和な顔になったかと思うと楽しいが、中国がまともに成長するとは想定できない。
中国経済を見て、再起不能ではないかと思われるのが不動産業である。先日、これまでも三回倒産の噂が流れた不動産開発大手の「恒大集団」がついに債務超過した。一集団でも地方財政を圧迫する。中国の土地は中央の所有で、地方政府が使用権を持つ。予算を立てて国と値段を交渉する。ある地方政府が団地を計画すると土地の使用権(料)は契約時に決められる。土地収入が定期的な〝税収〞となるわけだが、〝団地〞の経費が行き詰まると地方財政に欠損が出る。計画の失敗は地方財政に穴を開ける。地方経済が怪しくなったところは全国で大都市十八が中心といわれる。全て大都会で、経済の建て直しが困難となれば、躺平主義は続くだろう。喜ぶべきか。悲しむべきか。
中国はビルでも一戸建てでも建築費をもらってから、その金で建築するという手順が建前である。全額払って完済、入居となるわけだが、全てが完成しない限りは電気、水道は入らない。しかし、工事が完成していなくとも、入金しいらだった入居予定者は建物で生活する。水道・電気がなくても、そうしたくなるのだろう。
(「正論」令和5年10月号より転載)