《日英関係コラム Vol.12》
海洋国家の命綱―情報

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研究員 橋本量則

《エネルギー、食糧、情報を制するものは世界を制す》(倉前盛通『悪の論理』)
エネルギーと食糧は地政学的な見方には不可欠な要素だが、実は地理とは一見関係なさそうな情報も、重要な要素となる。本稿は海洋国家と情報の関係を地政学の視点から述べてみたい。 
 
海洋国家と大陸国家の違い
 ウクライナ戦争を引き起こしたことにより西側から経済制裁を受けているロシアが、今も持ち堪えていられるのは、世界最大の大陸国家としてエネルギーと食糧を自給できるからである。つまり、ロシアなどの大陸国家は上述の3要素のうちの2つを既に手にしている。
 一方、情報網を構築し、その情報を分析、活用することは海洋国家の得意分野である。海洋国家はエネルギーや食糧を自給することができないので、これらを交易によって入手しなくてはならない。入手までには様々な過程を経るので、綿密な情報分析が必要となる。それは生産国の国情から、輸送経路、経由地の情勢、天候、市場の動向など、ありとあらゆる因子を分析することになる。海洋国家が情報網を世界各国に張り巡らせているのはこのためである。
 歴史的に見ても、情報機関の発展は海洋国家のそれと軌を一にする。それは、中世に海洋通商国家として隆盛を極めたベネチアが用いた情報網が、現代の情報機関の原型であると言われることからも窺えるだろう。海洋国家ベネチアは通商とそれを支える情報に国家の命運を委ねた。当然ながら、ベネチアは国家として在外公館を中心に各国の情報収集を行なったが、それだけでは不十分であることを承知しており、各地に散らばるベネチア商人が現地で見聞きして、送って寄越す「生」の情報が何より重要であることを理解していた。政府機関がカバーできる範囲には限度があるからである。つまり、海洋通商国家の情報活動には民間の力が必要であり、海洋国家が生き延びるためにはこれを活用しなくてはならいと歴史は物語っている。
 海洋通商国家は本来このような性質を備えているので、民間企業が活動しやすいように「自由」と「ルール」を重視する。一方、国家の生存を交易に頼る必要のない大陸国家にはこのような発想は生まれ難い。もちろん大陸国家も交易を行うが、飽くまで経済の主体は自給自足の生産活動であり、交易なくして生存が成り立たない海洋国家とは交易に対する真剣度が違う。同時に、情報に対する感度も異なる。従って、海洋国家の情報活動を、大陸国家は真似しようとしてもできるものではない。大陸国家は歴史的にみて、情報を統制する独裁・統制国家である傾向を持つ。
 
地政学とサイバーセキュリティ
 では、大陸国家は何もせず、海洋国家の情報活動を眺めているだけであろうか。当然、妨害工作をすることになろう。昨今のサイバー技術の発達に伴い、海洋国家の生存に欠かせない情報は、現在、新たな局面を迎えている。海洋国家の最大の強みである情報領域、つまり、ネットワーク化が進んだ情報システムがサイバー攻撃の標的となり機能を停止すれば、通商システム全体が機能しなくなってしまう危険が現実の問題となってきた。
 サイバー空間に地理的要素は関係ない。そこには大陸国家も海洋国家もないのだが、サイバー攻撃の影響をどちらがより多く受けるかと言えば、先進的な情報化社会を築いてきた海洋国家の方である。もし仮に、この瞬間から世界の情報処理システムが一斉にダウンし、1年間は復旧しないとしよう。この1年間、大陸国家と海洋国家のどちらが生き延びる確率が高いだろうか。資源と食糧を自給自足できる大陸国家であろう。こう考えると、サイバー分野においても地政学は排除することはできないのである。高度な情報システムを構築してきた海洋国家にとっては、それが却ってアキレス腱にもなると認識しておかなければならない。同時に、大陸の権威主義国家が高度なサイバー能力を持つことが如何に脅威となるか、海洋国家は十分認識しておく必要がある。サイバーセキュリティは海洋国家にこそ必要不可欠な防衛策と言える。
 このような海洋国家への警鐘を鳴らしているのが、海洋地政学の専門家である英国ランカスター大学のジャーモンド(Basil Germond)教授である。彼の主張は英国を念頭においたものであるが、同じ海洋国家の日本にも大いに参考となる。因みに、英国はベネチアが築いた海洋国家モデルを受け継いだ国家であり、情報に対する感度は非常に高い。
 ジャーモンド教授は次のように述べる。
 
 《現在、連結性と自動化が進んだ海運業のオペレーションは、航海、通信に留まらず、貨物追跡システム、港湾オペレーションに至るまで、サイバー・宇宙空間に依拠した技術とシステムに依存している。ここが標的にされ、これらのオペレーションが停止してしまえば、海洋国家の経済システムは瓦解してしまうことになる。その国際的な情報通信網を担うのが海底ケーブルである。これはまさに海洋国家の命綱とも言える。これら情報通信システムへの攻撃は、比較的安価に行うことができるが、海洋国家へのその影響は計り知れない。世界のサプライチェーンと通信ネットワークを守るにはまず、海底を含む海洋領域にあるインフラを守り、管理する必要がある。》(“The geopolitics of maritime cybersecurity” 「海事サイバーセキュリティの地政学」)
 
 教授は、海事サイバーセキュリティには包括的な手法を採ることが求められると説く。それにはまず、サイバーセキュリティ、サイバー防衛、地政学を統合した新しい考え方が必要で、さらに、経済、組織、技術、軍事を統合した包括的な手法でサイバー空間と海洋領域におけるリスク管理に当たる必要がある。これ無くして、経済的利益を意に介さない国家やその支援を受けた敵対的な分子たちの標的となる危険から、海洋領域、つまりそこに国家の生存を依拠している海洋国家を守ることは覚束ないのである。
 
むすび
 海洋通商国家は、自由とルールの上に繁栄を築いてきた。その繁栄を享受してきた西側諸国が自由主義と法の支配を重んじるのは当然である。海洋の自由と安全は、自由主義世界の安全と安定と表裏をなすものである。それを守るには、まず海洋における民間の活動とそれを支えるインフラを守ることが不可欠である。従って、ルールを無視する権威主義的な勢力から民間の海洋活動を守ること、世界のサプライチェーンを維持することは、ルールに基づく国際秩序の維持に欠かせないのである。これは自由主義対権威主義という理念の対立に見えるが、海洋国家にとっては、国家の生存と繁栄がかかった事案である。そして、それは今、通商に不可欠な情報システムをサイバー攻撃から如何に守るかにかかっている。この認識を、海洋国家である日本がどれだけ持っているのか、甚だ心許ない。