「台湾防衛の最前線」へ

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理事・拓殖大学政経学部教授 丹羽文生

 台湾のようで台湾でない。中国のようで中国でない。先日、中国大陸の目と鼻の先にある台湾の金門島を訪れた。台湾が実効支配する金門島は、行政区分上は「中華民国福建省金門県」だが、中国からすれば「中華人民共和国福建省泉州市」の管轄地域となる。
 第2次世界大戦後の1946年6月、中国大陸で毛沢東率いる共産党軍と蔣介石率いる国民党軍による国共内戦が勃発した。圧倒的兵力を有する共産党軍の猛攻により国民党軍は徐々に居場所を失っていき、1949年10月、毛沢東は中国大陸に新中国の建国を宣言し、これにより国共内戦は共産党軍の勝利、国民党軍の敗北が確定した。中国大陸は「中華民国」から「中華人民共和国」に衣替えしたわけである。
 国民党軍は、日本から返還されて間もない台湾へ。「中華民国」そのものを台湾に移し、そのまま居座ることとなった。
 そんな中、国共内戦のクライマックスとも言える戦いが金門島を舞台に繰り広げられる。「古寧頭戦役」(金門島の戦い)である。南方に追い遣られた国民党軍にとって、この金門島が共産党軍に奪われれば、台湾にまで、その手が伸びてくる。激闘の末、辛うじて国民党軍は金門島を死守、共産党軍による台湾侵攻を阻止することに成功した。
 1958年8月23日には金門砲戦が勃発し、約1ヵ月半の間に人民解放軍から約47万5,000発もの砲弾が金門島に撃ち込まれた。戦闘行為そのものは10月5日に終わるが、人民解放軍による砲撃は米中国交正常化までの21年の長きに亘って続いた。
 1992年11月、台湾本島より5年遅れで戒厳令が解除され、2001年1月からは対岸の厦門との間で通航の自由化が実現し、2018年8月には福建省から金門島への給水も始まった。軍事施設が観光資源となっていることから大勢の中国人も訪れ、繁華街「模範街」には中国国旗「五星紅旗」が掲げられた。そんな金門島の名物は、かつて中国から撃ち込まれた砲弾を溶かして作られた包丁である。中国人の行き来が活発だった頃は飛ぶように売れたらしい。
 筆者の滞在時間は半日ほどだったが、それでも、古寧頭戦史館や八二三戦史館の見学、敵兵の上陸を阻止するために立てられた鉄製の杭が並ぶ海岸からは厦門のビル群を肉眼で見ることができた。近年は、独立志向の強い蔡英文政権への圧力強化の一環として中国から台湾への渡航制限・禁止策に加え、新型コロナウイルス禍により、観光にやって来る中国人はいない。ホテルもレストランも土産物店も閑古鳥が鳴き、中台間の往来再開を待ちわびる声が多くあった。
 台湾では、殆どの人が自分は「台湾人」であると自認しているが、そもそも「台湾」ではない金門島に住む人々は、地理的感覚からなのか厦門寄りで、「中華民国人」としてのアイデンティティが強い。政治的にも民進党より、対中融和のスタンスを取る国民党の支持率が圧倒的に高く、中台統一を唱える人までいた。
 台湾有事が起こった場合、この金門島が中国による最初の標的になるとの見方がある。確かに、アメリカの台湾関係法においても、ここは防衛義務の適用範囲外でもあるため、中国からすれば攻撃し易い。
 ただ、これだけ親中的な住民に対して危害を加えることができるのか。それに、金門島で中台軍事衝突が発生すれば、当然、対岸の厦門にまで戦火が及び、多くの自国民が犠牲となろう。金門島は今後、どこへ向かうのか。その動向から目が離せない。