古典を通じて歴史に学び、先人から知識、経験を吸収することは、現代を生きる私たち、特にリーダーにとって最も意味のあることである。古典は人間学の宝庫であって、人間の営みに関する万般の知恵が、あらゆる角度から解き明かされている。肝心な時に決断、判断を誤らないためには、どうすべきか。逆境に突き落とされた時に、いかにして切り抜ければいいのか。リーダーに必要不可欠な要素が、数多く記されている。
昨今、政治家が小粒になったと言われて久しい。その原因は、古典に触れる機会が乏しくなったからではないだろうか。
明治のリーダーが骨太だったのは、「経史の学」を修めたからであると言われる。「経」とは儒教、「史」とは歴史のことを指す。彼らは江戸時代の生まれであり、「四書五経」を学んでいる。「四書」は『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』のことで、「五経」は『易経』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』を指す。これらを学び、帝王学を習得し、リーダーの条件を備えた人物が、明治維新の風雲の中で鍛えられて、為政者の地位に就いたのである。伊藤博文、大隈重信、山縣有朋といった明治期の宰相の残された顔写真を見ても、風格、風圧を感じるのは、そのためであろう。
昭和の大宰相である吉田茂は、明治の生まれではあるが、11歳から5年間、全寮制の「耕余義塾」という私塾に寄宿していた。ここで吉田は漢学を中心に古典を学び、人生の基礎を築いたのである。
戦後の政治家の中で最も知性派であったとされる元首相の大平正芳も、和漢の古典に精通した大の読書家で知られ、郷里の香川県観音寺市にある「大平文庫」には、膨大な数の蔵書が収められている。大平は自らの読書観について「洋の東西を問わず、歴史の風雪に耐えて、しかも依然強い光彩と生命力を放つ少数の書籍を、自分の実生活の伴侶として、よく読みよく消化し、よく実践するという生き方をとらない限り、われわれの精神の渇きは癒すべくもないのではなかろうか」と述べた上で、「みずからの実生活に不動の自信と光明をもたらす、珠玉のような冊数の書がほしいものである。一日書庫に入り、玉書を得て寝食を忘れ、かつ読みかつ写すほどの値うちのある本がほしいものである」と語っている(『私の履歴書』(日本経済新聞社、1978年))。
敬虔なクリスチャンでもあった大平は『聖書』を愛読し、スピーチでも好んで、その一節を引用した。「アーウー」と言いながら発する言葉を吟味するため「アーウー宰相」と揶揄されたが、失言は一切なかった。そのバックボーンには、読書によって蓄積された知的資本が存在していたのである。
同じく元首相の中曽根康弘も「本の虫」で知られた。そのジャンルは、古典は勿論、宗教、哲学、自然科学と幅広く、100歳を過ぎてもベストセラーには必ず目を通していたらしい。
初代中華民国総統の蔣介石にも現代の政治家が学ぶべき生き方がある。彼は生前、1日に2時間は自分の書斎に閉じ篭って1人の時間を過ごした。これは長い間、取り巻きたちの謎となっていたのだが、ある日、緊急事態が発生したために、恐る恐る側近が部屋の扉を開けると、そこには端然として机に向かい『孟子』に朱注をしている蔣介石の姿があったという。
現代の政治家は、余りに忙し過ぎて、書物に目を通す時間などないと思われる。権力の魔性に溺れないためにも、己を律するためにも、誰にも会わず、古典と向き合い内省する一時が必要なのではないだろうか。