経済こそが戦争を制する、先見性と冷静さが欠如した日本の悲劇

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政策提言委員・金沢工業大学客員教授 藤谷昌敏

 今から約80年前の1941年12月8日、「真珠湾奇襲攻撃」により日本と米国は戦闘状態となった。既に中国大陸などの権益をめぐって対立関係に陥っていた日米両国は、その数年前から双方の経済的軍事的な弱点を探るために複数の研究機関を立ち上げていた。
 日本では、1937年、総力戦体制を議論する場として「企画院」が創設され、1939年には、陸軍が「秋丸機関」を創設、1940年には「総力戦研究所」が作られた。
 一方、米国もまた政府を挙げて日本の弱点の研究に取り組んでいた。その成果は、1941年5月「脆弱性の研究」として取りまとめられた。この研究は米国が全面的に貿易縮小を行った場合、日本にどのような影響を与えるのかを評価したもので、それまで米国政府が取り組んだ研究の中で最も詳細な研究だった。
 これら日米の経済戦に対する取り組みと分析、結論に対する為政者たちの対応の相違を比べてみると、なぜ日本が敗戦したのかが明らかに理解できる。
 
日本の経済戦に対する取り組み
 「企画院」は、1937年10月、資源局と企画庁を統合して設置された内閣直属の組織で、日中戦争の勃発を契機として設置された。国家総動員の中枢機関と位置づけられ、平時及び戦時における国力の拡充と運用に関する計画の立案、国家総動員計画の策定及びその実施について各省庁の調整統一を行った。国家総動員法など一連の総力戦体制案を策定したのも、この企画院だった。「経済新体制確立要綱」など新体制確立を画策したものの、財界などの強い反対にあい実現しなかった。41年には企画院事件を引き起こすに至り、結局、43年11月、軍需省に合併された。
 「秋丸機関」は、1939年9月に日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織で、正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」、対外的名称は「陸軍省主計課別班」と称された。ノモンハン事件や第二次世界大戦の勃発などの緊迫した情勢を受けて、経済戦を研究するために、当時の陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐が中心となって陸軍省経理局内に研究班が設立された。実質的に秋丸次朗中佐が率いたので「秋丸機関」とも呼ばれた。秋丸機関が分析した対象国は、米英ソなどの仮想敵国だけではなく、同盟国も含まれており、その経済戦力を詳細に分析して弱点を把握するとともに、日本の経済戦力を分析して、対応策を打ち立てることを目的とした。経済学者を集めたほか、各省の少壮官僚、満鉄調査部など各界のトップレベルの知能を集大成し、各国の「経済抗戦力判断」など多くの報告書を作成した。
 その報告書によると「対英米戦の場合、経済戦力の比は二十対一程度と判断するが、開戦後二ヶ年間は貯備戦力によって抗戦可能、それ以降はわが経済戦力は下降を辿り、彼は上昇し始めるので、彼我戦力の格差が大となり、持久戦には堪え難い」という対英米戦争戦略を示したが、既に対英米戦に傾斜していた軍部には理解されなかった。1942年12月に秋丸機関は解散し、その研究機能は総力戦研究所に移管された。
 「総力戦研究所」は、1941年7月、日米戦争を想定した第1回総力戦机上演習(シミュレーション)を行い、研究生たちによる演習用の青国(日本)模擬内閣も組織された。各研究生による研究の結果は「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった。だが、参列した東條首相は、参列者の意見として「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります」と切り捨てた。
 一方の米国はどのような取り組みを行っていたのだろうか。
 
米国の経済戦に対する取り組み
 米国の対日経済制裁は、当時、財務省通貨調査局長だったハリー・デクスター・ホワイト(後にソ連のスパイとの容疑がかかった人物、ハルノートの実質的起草者)が1941年、「日本は難問に直面しており、在米資産を凍結すればひとたまりもない」と報告したことを契機に動き出した。輸出管理局は、本格的な対日経済制裁を主張し、「脆弱性研究チーム」を立ち上げた。
 この脆弱性の研究は、輸出管理局極東調査班が主となって、60人以上の政府省庁のアナリストを集め、約50品目にわたる産業品目を調べたものだ。目的は、ただの禁輸だけではなく、中立国から原材料を先回りして買い占め(阻止購買)、日本が手を出せないようにした場合、日本の損害がどのぐらいか、中立国や世界の価格および生産にどのような影響を与えるかなど多岐にわたって調査することだった。米国は単なる国防上の観点にとどまらず、日本を経済戦争で打ち負かすことを考えていたのだ。
 責任者だった輸出管理局企画課のチーフ、トーマス・ヒューズは、「たとえ外交交渉が失敗しても、総力を挙げて日本を経済的に孤立させる努力を続ければ、日本を枢軸国から引き剝がすことも可能である」「米国政府はあらゆる経済力を総動員して、日本の国内経済と戦闘力の核心を直撃すべきである」などと論じ、    「米国は直ちに経済戦争政策を採用し、単独な管理組織の下で詳細な行動計画を準備しなければならない」と主張した。
 
日米両国の経済戦に対する対応の相違
 米国が様々なデータを分析して得た結論は、「経済制裁は、日本の国民経済を疲弊させ、産業を支えることもできず、次第に深刻な経済的危機に陥る」ということだった。米国は日本の脆弱性について、非常に細かく丹念に調査し、極めて合理的で効果的な経済制裁を実行していった。一方、経済力に劣る日本は、研究機関の議論において、対米戦は日本必敗の結論が出ていたにもかかわらず、当時の為政者たちや軍部に理解されず、かつ楽観的な見方が支配して、対米戦に突き進んでいった。どんなに優秀な人々が議論を尽くしたとしても、為政者が先見の明を持ち、冷静な分析力と大局観を以て、広い視野で将来を見据えていかなければ国は誤るという典型的な例である。
(参考)
エドワード・ミラー、金子宣子訳「日本経済を殲滅せよ」新潮社、2010年
牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」新潮選書、2018年