夏目漱石の弟子で知られる随筆家で物理学者でもあった寺田寅彦は「天災は忘れられたる頃来る」との警句を残している。1995年1月の阪神・淡路大震災から29年、2011年3月の東日本大震災から間もなく13年を迎え、次第に惨禍の記憶が薄らいでいく中、元日の夕方、筆者の故郷である石川県能登地方をマグニチュード7.6もの巨大地震が襲った。
建物の倒壊に加え、火災も相次ぎ、多くの人々が犠牲となった。中でも特に大きな被害を受けたのが、千年以上の長い歴史を誇る朝市で有名な奥能登の輪島だった。地震直後に大規模な火災に見舞われ、約200棟もの住宅・店舗が瞬く間に灰燼に帰した。
筆者の実家は県中心部、ちょうど能登地方の入口にある。父は10年前に他界、母が1人で暮らしている。年末から帰郷していた筆者は、その日の午後、近くのショッピングセンターに出かけていた。
午後4時過ぎのことだった。ショッピングセンター内の書店で、あれこれ物色していところ、突然、激しい揺れが襲ってきた。各々のスマートフォンから、緊急地震速報のアラート音が鳴り響く。
揺れは数秒で収まった。急いで外の駐車場に出る。すると今度は最初の振動以上の強い揺れ。地面が波打つように動く。立っているのもやっとで、アルミでできた車止めポールに掴まりながら小学3年生の息子と一緒に座り込んだ。
しばらくして食品売り場で買い物をしていた妻と合流し、留守番をしていた母の無事を確認、すぐに実家に戻った。リビングのドアが開かなくなった程度の被害で済んだものの、繰り返し続く余震に怯えながら一夜を過ごした。
翌日は午後5時5分の小松空港発の便で帰京予定だった。地震により在来線は全て運転見合わせになったため、実家に遊びに来ていた従兄が小松空港まで車で送ってくれることとなった。
地震の被害で一部の道路が寸断されているため、回り道をしながら小松空港に向かう。飛行機は定刻より数分遅れで小松空港を出発した。午後6時過ぎ、間もなく羽田空港に到着するところで、機長のアナウンスが入った。羽田空港で火災が発生し着陸できないため成田空港に向かうという。
すぐに座席に設置されたモニターでニュースをつけたところ、航空機が燃えている映像が映っているではないか。新千歳空港から向かっていたJAL(日本航空)機が、羽田空港に着陸した直後に海保(海上保安庁)機と衝突したという。まるで映画のワンシーンを見ているようだった。
筆者が乗っていたANA(全日空)機は午後6時50分に成田空港に到着した。各地から羽田空港に着陸できない旅客機が成田空港に殺到したため、結局、機内の外に出ることができたのは、到着から40分後のことだった。この事故ではJAL機の乗客・乗員379人が脱出を果たす一方、海保機の乗員5人は死亡、奇しくも能登半島地震の被災地に救援物資を届ける途上だった。
筆者は、この新春二大事案の当事者になってしまったわけである。2024年は波乱含みのスタートとなった。能登半島地震から10日後、被災した輪島に住む知人から連絡があった。15時間も倒壊した自宅の下敷きとなり、全身打撲で入院中だという。能登半島の冬は厳しい。最低気温が氷点下にまで下がる日もある。一刻も早い被災者の救援、被災地の復興を願って止まない。