光輝いていたあの生き方

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会長・政治評論家 屋山太郎

 私にとってかけがえのない師だった田久保忠衛さんが1月9日、亡くなった。
 私が時事通信に入社した時、〝タクちゃん〞は2年先輩の官庁部の記者だった。私は記者が送って来る記事の原稿取りをやっていたのだが、秀逸さはタクちゃんが抜きん出ていた。
 内勤から外勤に出る時、上司から「君は田久保に教われ」と言われた。その時、人生の花が開いたような気分だった。と言っても何も教えてくれるわけではない。
 私が何十日も〝別室〞(麻雀部屋)に籠っていると、ある日、タクちゃんが首を出して「学校に行ってるつもりで通っているようだが、この部屋には特ダネは降ってこないからな」とこっそり言う。要するに「特ダネでも取ってみろ」と言っているのだが、これは胸に響いた。
 それから〝学校〞を卒業して何十日か後に「農業基本法」の特ダネを抜いた。と言っても仲良くしていた局長が机に置いていた紙にしがみついて、「読ませてください」と何度も最敬礼を繰り返しただけのことである。
 局長は「俺は昼メシを食って来るよ」と出かけて午後3時過ぎまで戻ってこなかった。その間、私はコピーを済ませ、タクちゃんのところに駆けつけた。タクちゃんは、「この汚ねえ字を読めるのはタイピストしかいない。君はこれを持ってタイピストのところに急げ。本文は俺が書いておく」と言うのである。
 タイピストのところにいるとタクちゃんの本文が続々と入ってくるのだが、こちらの知らないことばかりである。何しろ戦後の農政を全部やり替えるという主旨だから、話はデカい。考えてみると私はデカい話を何も知らずに、コピーをかっぱらって来ただけではないかと自己嫌悪に陥った。
 タクちゃんは特賞も辞退して特ダネは私一人のものになった。タクちゃんの気前のいい生き方は私の精神に響き渡った。この生き方は光り輝いて、その後の私の人生にどのくらいの影響をもたらしたか。
 タクちゃんがそっと忠告してくれた態度、その後の身の処し方に常に美しさを感じていた。その後も彼はワシントン特派員時代に、バカな記者に駐日大使のスクープを取らせたりして、自分への賞は一切要らない姿勢を見せた。あの謙虚さはどこから来るのだろう。
 時事通信に組合が設立されたことがある。私も入ったのだが、タクちゃんは国際問題を抱え、組合騒ぎどころではなかった。スト中の組合員がタクちゃんに「私は組合員ですから、お手伝いできません」と答えると、「昔陸軍、今、組合というような態度は許さん」と素手でプラスチックの机を叩いたところ、へこんだというので全員が震え上がった。
 九段高校時代に空手をやっていて、よく空手の技を見せてくれたが、あれは実力だったのかと皆が気付いた。
 この紳士はよくもてた。バーに行くときれいな女性は皆、タクちゃんの傍に寄り付いた。大使を経験した外交官まで〝田久保組〞を形成し、日曜日に待ち合わせて食事をするほどになった。ところがある日、彼女は忽然と消えたのである。友人に店を譲って突然、結婚したらしい。タクちゃんは「オレにあんなに惚れていたのに、消えるわけがない」としょんぼり。皆がタクちゃんのウブさに呆れたが、とんでもない純粋な男がいたものである。
 タクちゃんは農水省にいる限り、朝から晩まで本を読み、論文を書いていた。当時、自民党より右寄りの民社党の外交方針を書いていたのだ。
 時々国際情勢をレクチャーしてもらったが、分厚い大学ノートに重要事項が列記してある。「大事な数字は必ず暗記しろ」と何度も念を押されたものである。彼の論文にはあえて数字が載せてある部分がある。ここが大事なんだなと反復暗記したものである。
 平成24(2012)年に自民党が石破茂、安倍晋三両氏で総裁ポストを争った時、タクちゃんには二人から同時期に講演依頼があったという。「どっちに行くべきか決めてくれ」と言うので、私は安倍氏を推して面目を施した。以来、安倍氏と田久保氏は親しくなって交際を深めた。
 田久保氏は、ジャーナリストの櫻井よしこさんが理事長を務める「国家基本問題研究所」の重鎮だった。国基研を順調に発展させることが田久保氏の希望に沿うことになると信じている。
 
(「正論」令和6年3月号より転載)