トマシュ・グヴォズドフスキ駐日ポーランド大使館次席を表敬訪問

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研究員 増永真悟

 10月28日、JFSS長野禮子事務局長がトマシュ・グヴォズドフスキ駐日ポーランド共和国大使館次席を表敬訪問した。グヴォズドフスキ次席は台湾での研修経験を持ち、中国語を話し、独学で日本語も学ぶなどアジアに造詣が深い外交官として知られている。
 今回の訪問は7月の「第4回台湾海峡危機政策シミュレーション」にオブザーバー参加し、10月16日にJFSSを再訪したマルチン・イェシェフスキー氏(EVC駐台湾代表)の紹介によって実現した。
 次席からはまずJFSSの組織についての質問が出た。長野は「JFSSには主に防衛省・自衛隊・外務省などのOBが多数所属している。彼らの専門的知見と協力によって運営している」とし、特に「台湾海峡危機政策シミュレーション」においては、安倍元首相の「台湾有事は日本有事」の認識のもと、年単位での情報収集、検討会を重ねての開催である」と述べた。今年7月の第4回政策シミュレーションについて次席は「これだけの数の現役国会議員や防衛省・自衛隊・外務省等々OBが参加する大規模なシミュレーションは見たことがない」と驚きの表情を隠さなかった。中国の一方的な「核心的利益」追及を阻止するためには、日台、日米台の連携、協力が欠かせないことから、第1回目の「NHKスペシャル」で世界に配信されたこともあり、この問題への関心が深まった。第3回目の昨年は、世界で初の「日米台3ヵ国」によるシミュレーションが実現したことを伝えた。
 日台の50年に亘る歴史の共有が日本の敗戦によって切り離された台湾。また中国の圧力によって国連からの脱退を余儀なくされた台湾、中国の経済発展、軍拡により軍事的・経済的・政治的圧力に晒されている台湾、日本人として決して看過できる問題ではない。台湾を守ることこそが日本の国益であり、日本の平和が維持できる。
 台湾同様、周辺の大国の圧力に翻弄されてきた歴史を持つポーランド。次席は台湾海峡危機が現実の戦争に発展する可能性について、「以前の中国共産党は集団指導体制によって部内での指導部批判も比較的自由に行われていたが、習近平が中央委員会総書記に就任した2012年以降、言論統制が強まっており、危険度は増している」と述べ、隣国ウクライナの危機がまさに実際の戦争へと変わったポーランドの経験をぜひ日本と共有したいと述べた。
 初対面とは思えない和やかな雰囲気での会談を終え、我々は次席の部室を辞し、大使館1階のロビーに降りた。そこでポーランドの民族衣装を着た等身大の人形を見つけた長野は、次席に「日本でもポーランド民謡の『森へ行きましょう』が有名です。学校で教わった記憶があるわ」と言って、突然歌い始めた。やがてそれに次席の歌声が重なり、まさかのデュエットとなった。まさに「音楽に国境はない」である。ポーランドはまたあの有名な作曲家ショパンの国でもある。私たちの日常生活の中に、日本とポーランドとの文化交流が自然な形で育まれてきたことに、改めて思いを馳せるひと時であった。
 今回の表敬訪問に当たって、次席から今後のJFSSとの協力に関し、数々の積極的なご提案を頂いた。このご縁を活かし、ポーランドとの更なる関係強化に繋げたい。
 
ポーランドの「白鷲の国章」を囲むグヴォズドフスキ次席(右)と長野事務局長(左)
       共産主義時代のポーランドでは白鷲の王冠が「ブルジョワ的である」として廃止
       され、ポーランド人からは「カラス」という蔑称で呼ばれていたが、1989年の民
       主化後に復活した経緯がある。
 
 
《ポーランドについて》
 ポーランドは中央ヨーロッパに位置する国で、面積は日本の8割ほど、約32万3,000 km²、人口約3,768万人の国だ。ポーランドという国名は「平原の国」が由来で、その「敵国からは攻め易く、防衛側は守り難い」地形から古来より周辺の大国の侵略を受けてきた。近現代史においては第二次世界大戦中の1939年に起きた独ソによるポーランド侵攻・分割占領、40年のソ連による「カティンの森」事件(独ソに対する防衛戦争の後、ソ連側の捕虜となったポーランド人将校ら約2万人がソ連秘密警察によって殺害された事件)、そして戦後はソ連による共産主義国化と衛星国化、また80年代に中東欧諸国で最初に民主化に動いたレフ・ワレサ議長率いる「連帯」運動のイメージが強い。
 日本では近年になって注目されるようになった国だが、実は日本とポーランドの歴史的関係は深い。第一次世界大戦後の1918年、ポーランドは16世紀以来、123年に及んだプロイセン・ロシア・オーストリアによる分割支配からの独立を達成した。独立後のポーランドに駐在した日本人と言えば、25年~28年に同地に日本陸軍の駐在武官として在勤し、北部軍管区司令官として、大戦終結後に侵攻してきたソ連に対する「占守島の戦い」を指揮したことで有名な樋口季一郎(ひぐち・きいちろう)の存在を忘れてはならない。樋口はポーランド在勤中、ソ連領ジョージアを旅行したことでユダヤ人の置かれた厳しい境遇を知り、この経験が後のハルビン特務機関長時代に起きたオトポール事件においてユダヤ人難民救出に繋がったとされている。
 また、シベリア出兵(1918~22年)中に日本が救出した在シベリア・ポーランド人孤児たちの話は有名だ。日本で手厚い看護を受け、念願の独立を果たした祖国ポーランドに帰還した孤児たちはその後、独ソによるポーランド分割の憂き目に遭う。しかし、元孤児らはドイツ占領下の旧首都ワルシャワで対独武装抵抗組織「イェジキ特別蜂起大隊(イェジキ部隊)」を結成する。ドイツの秘密警察ゲシュタポが、イェジキ部隊の拠点である孤児院の捜索に来た際、ワルシャワに残留していた日本大使館の井上益太郎(いのうえ・ますたろう)一等書記官が駆け付け、「この孤児院は日本大使館が保護しており身元は保証する」と述べた。ゲシュタポは井上の気迫に圧倒されて引き下がり、同孤児院ではその後1年もの間、日本式の丁寧なお辞儀を交わすのが流行ったという。
 現代の両国の関係も非常に緊密である。2015年、当時の安倍晋三総理はポーランドのコモロフスキ大統領(当時)との間で、日・ポ両国関係の「戦略的パートナーシップ」への格上げで合意。20年1月、前年に日本との国交樹立100周年を迎えたばかりのポーランドからモラヴィエツキ首相(当時)が来日した際、歓待したのも安倍氏であった。安倍氏は首脳会談の際、2020年が在シベリア・ポーランド人孤児らを日本が受け入れてから100年の節目であることに触れ、今後も両国間の経済協力や安全保障協力の深化を進めることでモラヴィエツキ首相と合意した。安倍氏が非業の死を遂げた後、ウクライナ、そしてロシアの同盟国であるベラルーシと国境を接するポーランドを巡る情勢は22年のウクライナ戦争勃発によって一変した。まさにウクライナ戦争の遥か以前から、ポーランドとの関係を重視してきた安倍氏の慧眼といえよう。
 23年4月、衆議院日本・ポーランド友好議員連盟事務局長を務める木原稔衆議院議員は「台湾有事が起きれば、日本はウクライナ戦争で100万人以上の避難民を保護したポーランドの役割が求められる」との見方を示した。安倍氏の慧眼に導かれて強化されたポーランドとの関係を今後も継続していくためにも、ポーランドと日本は更に協力を強化していく必要がある。
 
ポーランドの旧都クラクフにあるヴァヴェル城。
          クラクフは1596年までポーランド王国(当時)の首都であり、歴史的
          建造物が多く残ることから「ポーランドの京都」と呼ばれる。ヴァヴェ
          ル城は当時のポーランド王の居城であった。