8月の日本列島は「平和」という言葉に包まれる。誰もが日本の国のあり方として「平和」と唱える。同時に「戦争」は究極の悪として否定される。先の戦争での犠牲者の追悼という観点だけから考えるならば、自然な祈りの表われだともいえよう。8月は原爆の被害や敗戦の記念日が続くから平和の貴重さや戦争の惨禍を改めて想起し、戦死者を悼む自省の慣行だともいえよう。
しかしこの「平和」と「戦争」という言葉の連呼には、顕著な空間がある。空疎とか欠落と呼んでもよい。その欠落とはなにか。
「平和」とはなにか、「平和」をどうやって守るのか、という議論がまったく欠けている点である。「戦争」をすべて否定すれば、日本自身の防衛も放棄するのか。そもそも「戦争」をどう防ぐのか、という議論もない。だから日本の8月の平和論議は降伏論、無抵抗論に等しい。しかも平和のあるべき姿、つまり平和の内容を一切論じないからだ。外国に占領された日本でも平和でありさえすればよいのか。外国が侵略してきても、戦争をすべて禁じれば、外国に支配された「奴隷の平和」となる。8月の日本では「平和」という言葉に呪縛され、自国のあり方にも世界の現実にも目を閉じているようなのだ。
8月の日本の各種「平和の儀式」で小学生にまで「平和が絶対に大切です」と語らせる。その場合の平和とは単に戦争や軍事衝突がない、という状態を意味している。「平和」という状態の内容をまったく語らないからだ。この姿勢は平和という言葉の呪縛にかかり、自国の安全保障を真剣には考えないという思考停止に陥っているといえる。
一方、世界の他の諸国は目指すべき「平和」を単に戦争のない状態とはみない。ヨーロッパのドイツやフランスは国防白書などで「自由、独立、人権尊重を伴う平和」こそが真の平和だと明記している。
私は1980年代後半の東西冷戦時代からヨーロッパの安全保障政策に深い関心を抱き、西欧各国を何度も訪れて、それら諸国にとっての平和の追求やその平和の内容について調査した。自由や独立を伴わない平和は平和ではない、という基本認識が確立されていた。
米国も同様である。平和には自由や独立を必須条件としてつけるのだ。ほんの一例だが、オバマ大統領も2009年のノーベル平和賞の受賞で「平和とは単に軍事衝突がない状態ではなく、個人の固有の権利と尊厳が欠かせない」と述べていた。
さらに古い話だが、ベトナム革命闘争を主導したホー・チ・ミン主席も「独立と自由より貴重なものはない」と繰り返し明言した。国家や民族としての独立や自由のためには平和を犠牲にしても闘うという決意だった。つまり単に軍事衝突がないという平和は植民地支配がある限り、断固として排するという意味である。
だが日本での8月の平和論はとにかく戦争さえなければよい、という意味となる。その結果、いかなる戦争も否定ということになる。この「平和論」をいまのウクライナにぶつけたらどうなるか。戦争を止めれば、ロシアに全面占領されるだろう。
米国でも第二次世界大戦でのドイツや日本に対する戦争の勝利は毎年、大々的に祝う。戦争をして勝ったからこそ、今日の自由民主主義の国際秩序が保たれたのだとして、戦争自体の意義を認めている。他国の政府に対する軍事行動、つまり戦争は国連でさえ認めているのだ。平和維持活動、平和執行活動というのは、主権国家の侵略や軍事攻撃を国際規範からみて不当だと判断すれば、国連自体が軍事力を動員してその抑止や是正に当たる。国際正義のための戦争である。だがわが日本はこの戦争をも否定してしまうわけだ。
さて日本の8月平和論の欠陥を世界との比較という観点からここまで述べてくると、どうしても、では日本自身の国家安全保障はどうするのか、という課題にぶつかる。日本国には正当な手続きで決めてきた安全保障政策が存在する。その政策は決して降伏論でも無抵抗論でもない。だが8月に語られる平和という言葉の繰り返しが意味する「8月の平和論」は、日本国が民主的な手続きで決めてきた安全保障政策を事実上、否定しているのだ。
平和がよくて、戦争が悪いという認識は人間個人の次元では当然だといえよう。「8月の平和論」も日本の敗戦での人間的惨禍を回顧すれば説明はつく。だがあえて繰り返すが、国家や社会が他国から武力で侵略され、その侵略を防ぐ自衛のための戦争も否定すれば、無抵抗、降伏となる。
日本の「8月の平和論」は平和をどう守るのか、戦争をどう防ぐのかも、語らない。対照的に第一期トランプ政権の「国家防衛戦略」は「戦争を防ぐための最も確実な方法はその戦争への準備を備え、なおかつ勝利する態勢を保つことだ」と宣言していた。戦争を仕かけられても必ず勝つ態勢を保っていれば、そんな相手に戦争を仕かけてくる国はいなくなる、という意味だった。戦争の抑止という原理である。
世界のどの国も自国防衛の軍事的な能力や意思は明確に保っている。抑止である。その抑止の姿勢が他国からの軍事攻勢を抑え、平和を保持できる、という思考なのだ。
一方、日本の国内で日本人が集まり、ただ心の中で、あるいは言葉の上で、「平和」と叫び続けても、日本国の平和が守られる保証にはならない。そもそも平和とは日本と外部世界との関係の状態なのだ。国際的な関係なのである。日本国内の状態ではない。日本の平和が崩されるのは日本の外部からの動きによるのだ。日本がいくら平和を求めても、それを崩すのは日本の外の勢力なのだ。だから日本への侵略を考える他国の考えこそが決定的な要素となる。つまり、日本の内部だけで「平和」を唱え続けても、実効はないということだ。
「平和」という言葉の極端な呪縛のために、わが国家、わが郷土を防衛することも最初から放棄してしまう。そんな日本だとすれば、もう主権国家ではなくなってしまう。