国会が一強多弱になって、国会運営の形が変わってきたように見える。今国会の焦点となっているTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の承認案の審議が、衆院特別委員会で早々に審議することが決まった。
民進党の野田佳彦幹事長は米国議会もネガティブで、大統領候補は2人とも反対。日本が急ぐ理由がないと審議開始に反対した。TPPは日米の両方が批准しないと発効しないから、米国が反対なら日本が賛成しても意味がないという。しかし民主党のクリントン候補が反対しているのは大統領選上の駆け引きかもしれない。かつて米国は日本の参加は無理と踏んでいたが、安倍晋三内閣が急遽、参加に回ってきたのは米外交上の得点になる。日本が批准したら、米国も賛成に回ってくる可能性がある。
民進党がこのような外交上の駆け引きを承知で審議に乗ってきたとは思えない。通常なら反対一点張りのはずだが、頑固な姿勢が何故改まったのか。維新の審議に対する姿勢がはっきりと変わってきたからではないか。もともと国会は各党が政策案を持ち寄り、話し合って賛否を決する場所である。維新は独自の法律を100本も準備して、議論に持ち込むと宣言した。その党が、他党の持ってきた法案を審議しないというのでは、政党の意味がなくなる。政党が政策を出し合うのは当然であって日本のように“全野党共闘”とか、“野党一体”といって審議を止める国は存在しない。だからこそ多数決の原理が存するのであって、多数決を拒否するのでは民主政治は成り立たない。私は政治記者のかけ出しが日本だったから、社共共闘とか、全野党共闘という考え方は普通なのかと思っていた。
かつて民社(民主社会主義)党という反共思想の政党があり、この党だけは社共との共闘を拒んでいた。その後、イタリア政界を観察することになり、初めて日本の民社党の独立独歩の生き方が常識なのだとわかった。かといって民社党は常時、妥協を排していたわけではない。現状よりベターになると判断した時は容易に妥協した。頑なに妥協しなかった相手はひとり、共産党だけだった。
今、かつての社民党は民進党(その前は民主党)の中に埋没してしまった。埋没したせいで、他党の政策の善悪を選別することができなくなった。旧社会党色の強い執行部が国の姿勢を示すために、常時“民共共闘”を打ち出すことになる。国会から選別して妥協するという作業が消えたのである。
民主党から小沢一郎氏率いる「生活」が分裂した時、小沢氏は自民党に反対するのだから「『生活』のスローガンは自民党の反対、つまり増税反対と原発反対でいい」と断じた。これが今までの日本の政治の発想だった。
政権党に反対すればとよいという野党は漸く消えかかっているのではないか。維新がそのきっかけを作ったし、これで何でも反対の共産党と組む動機もなくなった。一強多弱の中から“道理”が生まれてきた。
(平成28年10月19日付静岡新聞『論壇』より転載)