尊厳と誇りの残響
―「2つの故国」に生きた湯徳章と二・二八事件―

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理事・拓殖大学政経学部教授 丹羽文生

 湯徳章を知る日本人は、決して多くない。しかし彼は、戦後台湾の動乱を象徴する人物であり、「法」と「良心」に殉じた法律家の姿を今日に伝える存在である。
 湯徳章は1907年1月、日本統治下にあった台湾・台南に生まれた。父は日本人の坂井徳蔵、母は台湾人の湯玉である。台南師範学校を中退後、台南州警務部の巡査として勤務するが、やがて志を抱いて上京し、中央大学で法律学を学んだ。当時、最難関とされた高等文官試験(司法試験)と行政科試験(国家公務員総合職試験)にいずれも合格するという卓越した実力を示し、帰郷後は台南で弁護士として活動した。
 第二次世界大戦の終結により、台湾統治は日本から「中華民国」へと移行した。しかし、その過程は混乱に満ちていた。中国大陸から渡ってきた官吏による汚職・腐敗が横行し、治安も著しく悪化、犯罪が頻発する状況となったのである。
 こうした不満が臨界点に達し、1947年2月28日、ついに民衆の怒りが噴出する。抗議行動は瞬く間に全土へ拡大したが、「中華民国」政府は戒厳令を布告し、中国大陸で国共内戦を戦っていた蔣介石の指示の下、援軍が送り込まれ、武力鎮圧に踏み切った。いわゆる二・二八事件である。
 この混乱の中で、湯徳章は弁護士として秩序回復に尽力した。暴力の応酬を食い止めるべく、台南市民を代表して政府側との交渉に臨み、理性的な対話による解決を目指したのである。しかし、その努力は実を結ばず、彼は無実の罪を着せられた末、公開の場で処刑されることとなった。
 処刑に際しても湯徳章は最後まで毅然たる態度を崩さなかった。目隠しを拒み、木に縛りつけようとしても応じず、跪くことを求められても決して膝を屈しなかった。激しい暴行を受けながらも、台湾語で「私には大和魂の血が流れている」と述べ、「誰かに罪があるとすれば、私1人が全ての責任を負う」と語り、日本語で「台湾人、万歳!」と高らかに叫んだ。
 最初1発目、そして2発目を受けても彼は立ち続け、3発目によって、ようやく地に伏したという。家族が駆け寄るも、遺体に触れることは許されず、その場に数日間、放置させられた。享年40であった。
 日本と台湾という「2つの祖国」を持つ彼は、日本語と台湾語を用いて、法に生きる人間としての矜持を貫いた。最後の姿は、極限状況における人間の尊厳を体現するものであったと言えよう。銃弾は彼の命を奪ったが、その誇りを消し去ることはできなかった。
 現在、処刑が行われた場所は「湯徳章記念公園」として整備され、胸像が建てられている。二・二八事件の犠牲者数は18,000人から28,000人とも言われるが、正確な数字は未だ明らかではない。先般、そんな彼の生涯を描いた映画『湯徳章:私は誰なのか』が公開された。尊厳とは何か、国家とは何か、そして個人とは何か。こうした根源的な問いを、改めて現代に提起する存在として、湯徳章の名前は後世に記憶されるべきであろう。