今年は芝山巌事件から130年に当たる。1896年1月1日、台湾の芝山巌で、国語(日本語)教育に従事していた6人の日本人教師と軍夫1人が抗日ゲリラに襲われ、命を落とした。この事件は、日本近代教育史のみならず、日台関係史を考える上でも重要な出来事である。
日本による台湾統治が始まったばかりの1895年6月、文部省学務部長心得の伊沢修二は、初代台湾総督の樺山資紀に対し、台湾統治の根幹は教育にあると進言した。樺山は、これを受け入れ、伊沢を台湾へ派遣する。伊沢は楫取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の6人の日本人教師と軍夫の小林清吉を伴って渡台し、芝山巌恵済宮を借りて「芝山巌学堂」を開校した。
開校当初、生徒は僅か数人程度であったが、9月には20人を超えるまでになった。だが、その頃、日本の台湾統治に反対する抗日ゲリラが激しい抵抗運動を展開しており、芝山巌近辺も決して安全ではなかった。住民から退去を勧められても、6人の先生たちは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」として、命を投げ打つ覚悟で芝山巌学堂に泊まり込み教育に没頭した。
1896年元旦、一行は台湾総督府で開催される新年の拝賀式に向かった。ところが、前夜に起きた抗日ゲリラによる騒乱で渡し船が途絶えていたため、仕方なく一旦、芝山巌に引き返した。正午頃、再び丘を降りようとすると、その途中で運悪く抗日ゲリラに遭遇してしまう。抗日ゲリラは一斉に7人を取り囲んだ。その数は約100人とも言われている。彼らは臆することなく堂々と教育の重要性を説いた。だが、結局、彼らの主張は聞き入れられず、7人全員が惨殺されてしまった。楫取は39歳、関口は38歳、中島は26歳、桂は28歳、井原は25歳、平井は19歳、そして小林は38歳という若さであった。
日本に一時帰国していた伊沢は急ぎ台湾へ戻り、彼らの遺灰を芝山巌に合葬、首相の伊藤博文の揮毫による「学務官僚遭難之碑」を始めとする慰霊碑が建立され、やがて彼らは「六士先生」と称えられるようになり、芝山巌は台湾教育発祥の聖地として知られるようになる。この間、彼らを祀る「芝山巌神社」も創建された。ここには台湾教育界に身を投じた日本人と台湾人が分け隔てなく祀られた。
ところが戦後、中国大陸から蔣介石率いる国府(国民政府)が台湾にやって来ると、彼らによって石碑も神社も破壊されてしまう。逆に抗日ゲリラを「義民」と讃える別の石碑まで造られた。しかし、台湾の心ある人々は六士先生のことを忘れなかった。
芝山巌学堂が開校されて100年目に当たる1995年1月、芝山巌学堂を源流とする台北市立士林国民小学の卒業生によって簡素な墓碑が建てられた。墓碑の正面には「六氏先生之墓」と刻まれている。昔は「六士先生」であったが、今では「六氏先生」という表記が定着している。
芝山巌事件は、単なる歴史上の悲劇ではない。それは、教育が社会を支え、未来を築く営みであることを今に伝える出来事でもある。130年の歳月を経た今、六氏先生が遺した志を次の世代へ語り継いでいくことが、私たちに課せられた歴史的使命なのではないだろうか。