荻生田氏の「田舎のプロレス」発言
―大人感覚から遠ざかる反与党小軍団―

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会長・政治評論家 屋山太郎

 萩生田光一官房副長官が野党の国会対応を「田舎のプロレス」と表現して、発言の撤回と謝罪に追い込まれた。発言したのは「憲法改正」をテーマにした民間の言論集会で、私も聴衆の一人として参加していた。憲法問題に関するシンポジウムが終わって、質疑に入った最後の質問者がボヤき半分で「一体国会はどうなるんでしょうか」と尋ねた。萩生田氏は困ったような顔をして「田舎のプロレスのようなもの。茶番です」と自嘲気味に答えた。3時間のシンポジウムで唯一みんなが笑ったのがこのセリフである。これで皆、気持ちが楽になったのだが、耳をそばだて与党側の発言にイチャモンをつけようと狙っているマスコミにとっては打って付けの餌食だったのだろう。
 マスコミが軽口も冗談も許さないようになったのは、日本の国会が自民、社会両党の対立で政治論議が固着化してしまったからだろう。その程度は笑って済ませるとか、事を荒立てるほどでもないといった大人の感情や感覚が剝げ落ちてしまったようだ。
 かつて、昭和41年3月の衆院外務委員会での椎名悦三郎外務大臣は、社会党の岡良一氏の日米安保条約についての質問の時、「米軍は番犬のようなものであります」と答えた。岡氏はすかさず「同盟国に向かって番犬とは失礼ではないか」と咎めた。再答弁に立った椎名氏は落ち着いて「番犬サマであります」と答えて満場を爆笑させた。岡氏もこれで闘争心が失せてしまった。私が経験した最も面白い国会答弁だが、その後、何十年も国会の場で吹き出すようなユーモアを聞かない。
 衆院厚労委の「年金改革関連法」の“強行採決”に当たって、民進、共産両党議員は手に手にテレビ向けの「強行採決反対」のプラカードを掲げていたが、これも不可解だ。強行採決というからには、いきなり採決するから“強行”なのであって、立派なビラが用意されているのは、あらかじめ知っていたからに違いない。
 自、社対決の時代、私も国会担当をやったことがあるが、自社の国対委員長間で、例えば「午後5時委員長着席、15分後に質疑打ち切り採決」と打ち合わせが決まっているのである。当然、採決の際には“乱闘”場面もある。何故乱闘まで付き合うかと言えば、社会党が必死の抵抗をする姿を見せ、一方で自民党は我慢し、その代わりに法案を通すという筋書きが必要なのだ。
 国会の乱闘もプラカードも双方とも承知の芝居なのだ。荻生田氏の言うように「茶番」そのものなのだが、国会対策上、こういう悪習を続けざるを得ないのか。自社体制の時代から、社会党は共産党と一体となって常時“反自民”だった。与野党の対立は“乱闘”にまで及んで、絵になった。いま民進党と共産党が使いたい用語は「全野党」という言葉だろう。ところが、採決に当たって「維新」が賛成に立ったり反対にも廻る。このため、「全野党共闘」という用語が使えない。維新の存在感が高まると「田舎のプロレス」が成り立たなくなるだろう。
(2016年11月30日付静岡新聞『論壇』より転載)