先週、中国当局が現地の旅行会社に訪日旅行者数を減らすよう通達を出した、という報道が流れた。背景には中国政府が資本流出を抑制する狙いで中国人の海外旅行の規制を強めるのではないかとの懸念がある。ここ数年の我が国の好景気は、インバウンド需要、特に中国人旅行者による「爆買い」に支えられてきた面があるので、今回の報道は関係業界の特別の注意を引いているようである。
一連の報道の発端は中国南東部の福建省発のニュースにある。省当局は通達発出の事実はないと否定しているようだが、同省からの訪日旅行者が特に多いことから、如何にもありそうな話だと受け止められている。中国からの技能実習生や留学生にも福建省出身者が多いと聞く。成田・関西と厦門(アモイ)の間には深圳航空のほかにJAL・ANAそれぞれの定期便が毎日満席で飛んでいる。世界の各地に「福建会館」という福建華僑が集う場所があるが、日本にも長崎や神戸のほか、横浜の中華街に古い会館がある。中国の他の省に関わる会館の存在は寡聞にしてあまり聞かないので、どうも福建人というのは海外華僑の中でも特別に郷土愛・団結力が強いようである。
歴史的に見た福建省と日本とのかかわりは実に古い。紀元前、日本に稲作技術をもたらしたのは中国南東部からの渡来人ではないかという学説があるが、それはさておいても平安・鎌倉の時代に両者の間に緊密な海上交易ルートが開かれていたことは確かなことである。古代、福建省の地域は「閩(びん)」あるいは「百越」と呼ばれていた。春秋戦国時代に「呉越同舟」の言葉が生まれた「越」という国は現在の浙江省あたりで、福建省の北に位置したので、「閩」はさらにその南に存在した蛮族の地だったのであろう。古代越人について記した中国の古い歴史書に「部族間の争闘を好み、髪を短くし、文身(いれずみ)をし、水田稲作民で、また河川や湖沼で漁労を営む」との記述があり、古代倭人とも遠い縁戚関係にあるように思えてくる。(福建語の発音から派生した日本の漢音も多い。)
鎌倉時代の「元寇」という歴史的事変を調べていると福建省にまつわる興味深い話がいくつも出てくる。「弘安の役」と呼ばれる二度目の侵攻(1281年)では高麗兵に代わって海戦に慣れた江南軍(約10万人)が主力になり、軍船の大半も粗末な高麗船ではなく泉州(福建省)で建造された頑丈なものに入れ替わったという。しかし、折からの台風の害もあって大敗すると、数千(数万という説あり)の捕虜が日本側に捉えられて殺害されている。モンゴル人、高麗人、漢人(華北人)はことごとく斬られたが、どういう訳か江南兵(浙江・福建両省出身者)だけは助命されている。彼らは元によって滅ぼされた旧・南宋人であり、交易によって日本と深いつながりを持ち、技術者が多かったことがその理由とされている。「友人知己は殺さず」ということだったのかも知れない。
時代がさらに下って室町時代になると中国の「明」の南東部沿岸を倭寇が襲うようになるが、海洋交易を生業とする福建人が明朝の鎖国政策を嫌って海賊化し、密貿易を行って倭寇と一体化するという珍現象が起こっている。これらの福建人は月代(さかやき)を剃って日本人になりすまし、倭寇の体(てい)を装って海賊行為を働いたという。当時の倭寇の8~9割は中国人自身によるものである。江戸時代の初期、平戸を根城にした鄭芝龍という海賊の頭目は日本人女性と結婚して、明末清初期の英雄・鄭成功を生んでいる。福建省と日本のかかわりは実に深い。
古代において福建省一帯が「百越」と呼ばれていたことは先に触れたが、実は、ベトナム人の多くが「自分たちは百越の末裔」と言っており、「ベトナム(越南)」という国名がその証のようになっている。「百越」とはインドシナ諸族の一派と言ってよい。「部族間の争闘を好み」という越人の特徴はベトナムの歴史にぴったり当てはまる。今日、そのベトナムが日本と格別の縁で結ばれていることは興味深い。ベトナム中部のホイアンなどには立派な福建会館があり、16~17世紀に多くの福建商人が移り住んだことが知られているが、明末清初のこの時代にはさらに多くの福建人が台湾に移住している。台湾で「内省人」と呼ばれている漢族のほとんどが福建人である。
今日、台湾やベトナムといった国・地域と強固な親日・友好のネットワークが出来ている背景には福建人の存在があると言えなくもない。同省からの技能実習生や留学生はもとより、多くの観光客にぜひ訪日してほしいと願う次第である。
(今、私は、福建省を主産地とするウーロン茶を飲みながらこの稿を書いている。)