先日、ペルー政府が人権侵害等の罪で収監中であったフジモリ元大統領への恩赦を決定し、直ちに釈放された。釈放時のフジモリ氏の姿をテレビ映像で見ると、かつての毅然たる面影はなく、79歳という高齢者の「老い」のみが印象に残った。12年間にわたる拘禁生活の厳しさが十分に感じ取れる映像であった。
フジモリ氏は、今から27年以上も前の1990年7月、ペルー初の日系人大統領として颯爽と登場した。当時のペルーはハイパーインフレに見舞われた最悪の経済状況にあり、センデロ・ルミノソやMRTAといった左翼ゲリラが全土で猛威を振るっていた。大学教授から大統領に身を転じたこの日系人は、「自作クーデター」によって腐敗しきった議会の機能を停止し、憲法改正によって大統領権限を強化した上で、経済回復とテロ対策に大ナタを振るったのである。
日本人にとって今も強く記憶に残るのは1996年12月に発生した「日本大使公邸人質事件」であろう。左翼ゲリラとの戦いに一切妥協しない大統領は97年の4月に自ら特殊部隊を指揮してゲリラを急襲し、人質全員を無事解放させた。特殊部隊員に2名の犠牲が出たものの、最後まで拘束されていた大使ほか70名を超える人質全員を無傷で救出したことは奇跡的であった。この事件を契機にゲリラ組織は急速に弱体化し、数年後にはほぼ壊滅した。この時がフジモリ人気の絶頂期であり、大統領本人の士気が最も高揚した時期であったであろう。
彼の最大の失敗は2000年5月に「3期目」を目指して大統領選に打って出たことである。ペルー憲法では大統領の任期は2期までとされているが、フジモリ氏は1期目の途中で新憲法を制定していたため、「新憲法の下では2期目である」との理屈で実質的に3期目となる大統領に就任した。しかし、ペルー内外の世論はこの強引な解釈に反発し、それまでの相次ぐ強権発動・人権無視への反感もあって、選挙の無効や辞任を求める声が澎湃として沸き起こった。その先頭に立ったのが米国政府であり国際人権団体であった。
そして、2000年11月、「3期目」の大統領になってわずか半年、フジモリ氏はマニラで開かれていたAPEC首脳会議から突然姿をくらまし、極秘に日本に入国して東京から大統領辞任を発表した。その発表の仕方が、本国の副大統領と国会議長にFAXで辞任の意向を伝えたというのであるから驚きである。しかも同氏はそのまま東京に居留まり、5年間もの間、日本での事実上の「亡命生活」を送ったのである。フジモリ氏はなぜペルーに帰国して辞任表明をしなかったのか、これが私の第一の疑問である。それほどペルー検察によるフジモリ逮捕の動きが迫っていたのであろうか。
当時、フジモリ氏には国家予算の不正流用(公金横領)の疑惑が生じており、側近との間で金銭を授受する現場がビデオ撮影されていた。また、治安部隊によるゲリラ組織壊滅の動きの中で、ゲリラと無関係の学生の集会場所を襲撃し、無実の学生多数を殺害するという不祥事も起こしていた。事実、フジモリ氏の「日本亡命」中に逮捕状が発出されている。同氏はこうした一連の動きを予想し、身の危険を感じたのかも知れない。
2005年11月、フジモリ氏はペルーに帰国する目的で突然に日本を出国した。偽名を使い変装して羽田からチャーター機で極秘裏に出国している。フジモリ氏は日本で多くの支援者に囲まれ、安全でそれなりに優雅な生活を送っていたのになぜ突然帰国しようと思い立ったのか、これが私の第二の疑問である。フジモリ氏は帰国途次に立ち寄ったチリで身柄を拘束され、ペルー政府に引き渡された。その後は2009年4月に禁固25年の有罪判決を受け、12月24日に恩赦を受けるまで12年間も拘置所での生活を送っている。同氏は、ペルーにおいて後任大統領の人気が低迷しているのを見て、貧困層を中心に依然として圧倒的な支持者がいることを過信し、「凱旋帰国」するつもりだったのかも知れない。
アルベルト・フジモリという政治家はペルーに移住したばかりの日本人(熊本県出身)の両親から生まれており、100%日本人の血を受け継いでいる。しかし、同時にペルーの大地で育った100%のペルー人であり、東京での「亡命生活」になじめず、望郷の念を募らせたのではないか。彼は、祖国で多くの支持者が自分を待っていると信じ、政治家としてもう一度花を咲かせることを夢見たのであろう。これが第二の疑問への私なりの答えである。