ポピュリズム(大衆迎合主義)の風潮が世界に蔓延する中、敢えて反ポピュリズムの旗を掲げて国家再建を図ろうという政治家が世界に2人いる。そのうちの一人は昨年のフランス大統領選挙で新興政党から立候補し、極右の国民戦線を破ったマクロン大統領だが、もう一人はアルゼンチンのマクリ大統領である。同大統領の国際的知名度は未だ低く、日本ではほとんど知られていないが、国際政治・経済の専門家の間では今最も高く評価されている政治家の一人である。
アルゼンチンと言えば最近まで破綻国家のイメージが強かった。特に、1974-90年及び1998-2002年の経済恐慌ではピーク時(1989年)のインフレ率が5000%、政府の公的債務は2001年末に1320億ドルという巨額に達し、大規模な暴動が発生して戒厳令が敷かれる事態に発展している。この間、自国通貨ペソが暴落し、政府主導で何度か「非公式通貨」が発行され、これが短期間で紙屑同然になるなど笑うに笑えないパニック経済も経験した。
また、アルゼンチンでは第二次世界大戦前は長期に亘って軍事独裁政権が続き、戦後は数次に亘ってペロン党による民族主義的な国家統制時代を経験している。ペロン党とはファン・ドミンゴ・ペロン大統領(1946-55年及び73-74年)が創始した政党で、「エビータ」のミュージカルで世界的に知られたエバ・ペロンはペロン大統領の1期目に大統領夫人(ファースト・レディ)を務めている。エバ・ペロンは子宮がんのため33歳の若さで死去したが、再婚相手のイザベル・ペロンは大統領の急死を受けて1974-76年に自ら大統領に就任している。
2003年に大統領に就任したペロン党のネストル・キルチネル(~2007年)及びその妻で後継大統領となったクリスチーナ・キルチネル(2007-15年)の時代には主要輸出品である一次産品価格の高騰もあって経済がいくらか持ち直し、多年の懸案であった対外債務の延滞問題もほぼ解決して、国際金融界への復帰を果たしたものの、統制経済は続き、高インフレと失業問題に苦しみ続けた。汚職腐敗と麻薬問題という積年の悪弊も改善されることはなかった。
2015年12月、モウリツィオ・マクリ大統領率いる新政権が登場したのはこうした悪環境のただ中であった。彼は、自ら中道右派の政党を創始し、ペロン党のポピュリズムを全否定して大統領選挙を勝ち抜いた。この点でフランスのマクロン大統領に似ている。マクリ大統領は就任演説で「司法の独立、汚職腐敗の撲滅、麻薬取引との闘い」を宣言し、自由主義的な経済運営も約束した。今、大統領就任後2年以上が過ぎ、貿易・為替の自由化の効果もあって経済成長、インフレ抑制及び失業率の改善に一定の成果を上げているものの、過去のポピュリズムの象徴であった高額年金の削減問題では強い抵抗に直面している。「アルゼンチンの大改革」は道半ばである。
マクリ大統領に対する欧米諸国の評価は極めて高い。2016年には米国のタイム誌が「世界で最も影響力のある100人」及び「ラテン・アメリカ最強の大統領」に選出したし、2017年には英国のエコノミスト誌が「今年最も傑出した人物」の一人に選んでいる。確かに歴史的にポピュリズムの伝統をもつ中南米でマクリ大統領の反ポピュリズム路線が成功すれば画期的なことである。
マクリ大統領は大学でシビル・エンジニアリングを学び、アルゼンチン最強のサッカー・チームであるボカ・ジュニアの会長も務めるなどユニークな経歴を有する。イタリア移民の子だが、父親が実業界で成功を収めたために裕福な家庭で育った。32歳の時に連邦警察に12日間に亘って誘拐され、家族が数億円の身代金を支払って解放されたという奇妙なエピソードも有する。大統領になる直前には首都ブエノスアイレスの市長を2期務めている。
日本から見るとアルゼンチンは地球の裏側にある。明治期には沖縄などから多くの日本人が移住したし、日露戦争直前には2隻の巡洋艦(日進と春日)を購入し、日本海海戦勝利につなげた歴史がある。残念ながら近年の相互の経済関係は多年に亘るアルゼンチン側の経済混乱もあって希薄になっている。在留邦人数は11,608人(2016年10月現在)と多いが、その95%は永住者で、企業の駐在員などは少ない。日系企業数(同じ2016年10月)は78社に留まり、隣国のパラグアイに232社が進出していることと比較すればその少なさは驚きである。マクリ大統領の経済改革と共に日本とアルゼンチンの経済関係が再び強化されていくことを期待したい。