去年9月以来シリア情勢を巡って重要な動きや出来事が続いている。11月24日のトルコ軍機によるロシア戦闘爆撃機撃墜事件はロシア・トルコ関係を決定的に悪化させ、「イスラム国」掃討のための国際協力に水を差した。1月2日にはサウジアラビア国内の騒擾に関係した嫌疑で死刑判決を受けていた47人を同国政府が処刑したが、その中にシーア派の著名なサウジアラビア人導師が含まれていたためにイランが猛反発し、テヘランでサウジアラビア大使館襲撃事件が起きた。サウジアラビア政府は直ちにイランと断交し、湾岸地域の緊張が高まった。両国はシリア内戦に深く関係しているので、内戦の動向に悪影響を与えかねない。事態を懸念する米政府やフランス政府、それにロシア政府、国連などは両国に冷静な対応を求めて緊張緩和に動いている。この事件はグローバル・パワー間では対立を避けようと動いている際のリージョナル・パワー間での対立、緊張関係の先鋭化であり、しかもリージョナル・パワーに対するグローバル・パワーの影響力が弱まってきている状況下でのリージョナル・パワーの暴走という新展開であり、いわば親分衆の間で手打ちしているときにそれまで子分だと思っていた連中が勝手に動いて緊張が高まるという21世紀の国際社会に於ける不安定な均衡を象徴している。
これらほど世界の耳目を驚かせたニュースではないが、年末の25日にはシリアの有力な反政府武装グループであるイスラム軍の創設者兼司令官ザハラン・アルーシュがダマスカス郊外の東グータ地区で政府軍の空爆により殺された。シリアの国営通信はその日のうちに、シリア政府軍が同司令官その他反政府武装勢力幹部たちを空爆して殺害した旨の国軍総司令部発表を伝え、詳しい内容を政府関係者の談話として報道した。イスラム軍側も同司令官の死亡と、副司令官アブ・ヒマム・ブワイダニの司令官就任を公表した。
この事件はロシア機撃墜やイラン・サウジアラビア関係悪化という国家間の問題ではなく、それだけにシリア国内の戦闘状況に直接的な影響があるという意味で重要である。
アルーシュ司令官はイスラム主義保守復古派として知られていた。父がサウジアラビアで復古主義ワッハーブ派導師として活躍している。イスラム軍の本拠地ドゥーマで1971年に生まれ、ダマスカス大学卒業後サウジアラビアのメディナ・イスラム大学で修士号を取得。3人の妻を持ち、子供は10人いるといわれる。彼はシリアで2009年に逮捕されて政治犯を収容するサイドナーヤ刑務所に収監され、民衆蜂起が全国に広がった11年6月22日に大統領恩赦で他の被収容者たちとともに釈放された。その後直ちに彼は地元で反政府武装グループを発足させたのだが、同刑務所からこの恩赦により釈放された者の中でその後反政府武装組織の発足に関与した者が多く出ている。
アルーシュ司令官はアサド大統領が属するアラウィ派に対して特に激しい敵意を燃やした。14年12月の発言では民主主義は腐敗した制度であるとし、アサド政権を打倒した上はイスラム法の支配による社会制度の確立を目指すことを明らかにして、欧米諸国や国連が制裁対象としているアルカイダ系のヌスラ戦線の思考と政権構想との間で非常に強い類似性が指摘されている。
彼が最初に結成した武装グループはイスラム大隊と称し、その後イスラム旅団に改称し、さらに13年にはイスラム軍となった。イスラム軍の規模について、15年5月のインタビューでアルーシュ司令官はダマスカス近郊に1万人のイスラム軍戦闘員を配し、その他に7千人の戦闘員がいると言及している。構成員はシリア人であるといわれる。イスラム軍は主にダマスカス郊外のドゥーマを拠点にダマスカス東部と南部からアサド政権に圧力を継続的にかけて、ダマスカス市内に迫撃砲やロケット砲弾を撃ち込んでいる。アサド政権の本拠地を狙ういくつもの反政府武装組織の中で最大の規模で、「イスラム国」とは対決する一方で前述のヌスラ戦線とは政府軍との戦闘で協力し合い、また、ゴラン高原地域ではイスラエル側との関係も指摘されてきた。
これだけの大部隊を率いるには相当規模の資金と武器が必要だが、同司令官は資金調達の方途について語るところなく、ただ、イスラム軍の武器はすべて政府軍から奪取調達していると説明するのだが、過去3年間ドゥーマ地区は政府軍による封鎖で極度の食糧難にあり、住民は疲弊していると言いながら、司令官や戦闘員たちは封鎖をかいくぐって頻繁に出入りを繰り返し、その軍事能力は衰えていない。彼は父親を介し、或いは大学生活の経験などを通してサウジアラビアとの関係が深く、同人とイスラム軍に対してはサウジアラビアが積極的に支援に関与しており、同国の影響下にあると指摘される。12月にリアドで開催されたサウジアラビア政府主催のシリア反体制派会議に代表を送った。
ところが去年5月以来アルーシュ司令官の言動は大きな変化を見せてきた。アルーシュ司令官はその頃から米国人記者や米国系雑誌のインタビューに応じ始め、自分が民主主義制度に反対したのはアサド大統領が主張するような民主主義でありバアス党が受け入れる複数政党制であり、ヌスラ戦線に好意的発言をしたのは、当時のヌスラ戦線内部にいた穏健な有力者支援が目的で今ではヌスラ戦線と袂を分かっている、自分の強硬発言が批判されるが、それは「イスラム国」などに向かいがちな若者たちを引き留めるためのものだったと弁明して、欧米諸国が同司令官に持つ疑惑を解消しようとするのだった。その時期は政権軍が随所で反政府武装組織の攻勢を受けて後退を余儀なくされている時期だった。アルーシュ司令官とイスラム軍は政権打倒の見通しが出てきたとして国際社会との折り合いを考えたのだろうか。イスラム軍は存在感を増していた。苦境にあったシリア政府軍は本拠地の市民が多く集まる市場を8月中旬に空爆した。多くの市民が犠牲になり国際社会からシリア政府に対して厳しい非難が向けられた。実はこの時、政府軍はイスラム軍幹部が市場の一角で集合しているという情報を得たので起死回生の空爆を実施したのだったが、空回りだった。
9月30日に開始されたロシア空軍の介入以来ロシア軍機の援護を受けた政府軍が勢いを取り戻してかなりの情勢変化が生じている。イスラム軍でも戦線立て直しの必要を迫られていた。そんなときの12月25日、イスラム軍とアハラール・アッシャームなど提携先の武装グループ代表らと会議中だったアルーシュ司令官と複数の幹部が空爆で殺害された。
副司令官アブ・ヒマム・ブワイダニが直ちに後継司令官に就任した。40歳、元商人。家族にムスリム同胞団と近い人物がいるという。サウジアラビアは長らくムスリム同胞団に極めて敵対的姿勢をとってきていた。だが、去年トルコやカタールとの関係を深めるに当ってその敵対姿勢を封印させた。今後ブワイダニ新司令官がアルーシュ前司令官のようなカリスマ性を持ってイスラム軍を掌握できるのか、サウジアラビアとの関係を従前通り維持できるのか、課題は多い。
シリア内戦の終わりに向けた過程が始まった今、イスラム軍が反政府武装グループのリーダーとして今後とも影響力を振るうのかどうか、注目していく必要がある。