中国の歴史における「戦国時代」(紀元前5~3世紀)に縦横家(しょうおうか)と呼ばれた弁舌の徒が活躍した時期があった。斉や秦、あるいは楚といった主要7ヵ国(いわゆる「戦国七雄」)が生き残りをかけて戦いと外交にしのぎを削っていた時代だが、縦横家は諸国を遍歴・遊説し、その国の指導者(国王)に有効な国家戦略や権謀術数策をもちかけ、それが採用されて一国の宰相になる者までいた。
そうした縦横家の中でも特に有名なのが、蘇秦と張儀の二人である。この頃、中国大陸では西方の秦が急速に力をつけ戦国7大国の中でみるみる群を抜いて超大国になりつつあった。他の6ヵ国は秦からの軍事侵略をおそれていたが、同時にお互いの間でも争いごとをかかえ反目しあって、身動きのとれない状況。ここに蘇秦や張儀といった有能な縦横家が暗躍する素地が生まれていた。
司馬遷の『史記』によれば、蘇秦は北方に位置する燕という国に行き、趙や斉、楚など南方の国々とタテに連携・同盟して超大国の秦に当たるべき(合従策)と説いた。一方、蘇秦と同門のライバルであった張儀は秦に行き、秦王・政(のちの始皇帝)に会って、6ヵ国の連携を阻止しバラバラにした上で1つひとつの国を個別に撃破すればよい(連衡策)と説いて、これが採用されたのである。蘇秦・張儀はそれぞれ宰相の地位に上り詰め、しのぎを削り合ったが、その後の歴史は張儀の連衡策が圧勝したことを示している。
なぜ今、私が、こうした故事をくどくどと話しているかというと、今の東アジアの政治・安全保障状況が当時のそれと酷似していると思うからである。超大国化し、近隣諸国を脅かし始めた中国はまさに昔の秦のごとくであり、我が国や韓国、台湾、ベトナム、フィリピンなどの周辺国・地域はこれに効果的に対抗する戦略を容易に見いだせないでいる。
安倍総理の説く「自由で開かれたインド太平洋戦略」が蘇秦の合従策に相当するとすれば、これら近隣諸国の連携を阻止し分断させようという中国の戦略は張儀の連衡策であろう。なぜ過去の歴史において合従策が失敗したかと言えば、それは近隣諸国が秦の台頭に怯えつつも、相互の間にある些末なもめごとに拘泥して反目し合い、連携・同盟できなかったからである。慰安婦や徴用工など過去の問題にこだわって反日的な外交を展開する韓国の対日姿勢を見るにつけ、同じ轍を踏んでいるような気がしてならない。
張儀の分断策も巧妙で、多額の賄賂をばらまくことで相手国の政権中枢に親秦勢力を扶植している。こうした勢力が対秦融和を主張し、タテの連携・同盟や反秦外交に反対した。楚の屈原は秦の脅威を説き、斉と同盟してこれに共同対処すべきことを強く主張した宰相(詩人としても著名)だが、秦に内通した佞臣の策謀に遭い孤立した。親秦路線に転じた国王は秦の謀略にひっかかって斉と断交するという愚策をとり、最後には秦からの王女の献上と和親条約締結の甘言に誘い出されて秦を訪問し、抑留され客地で死んでいる。絶望した屈原が長江のほとりで水死(自殺)したのは有名な話である。これがため、屈原は中国史上最強の「怨霊」になったという。
現代の中国も情報宣伝戦に長け、近隣国の「親中派」を陰に陽に支援して中国に批判的な言論、勢力を封じる戦略を巧妙に展開しているように見える。とにかく、諜報と謀略を交えた緩急自在の外交は中国の得意とするところである。今、欧米に台頭しつつある「中国シャープ・パワー論」はこうした状況に対する警鐘の一つであろう。勿論、中国をむやみに敵視する必要はなく、友好協力関係を保つことは重要である。しかし、同時に、中国の対外戦略の真の狙いについて甘い幻想を抱くべきではなく、近隣国が相連携の上、時には厳しく共同対処する心構えが求められる。
前述のように、中国史において蘇秦の合従策は張儀の連衡策の前に惨敗した。「歴史は繰り返される」と言うが、21世紀において同じことが繰り返されるのは見たくない。そのためには、「合従」の範囲を東アジアに限定することなく、豪州・インドから広く欧米諸国にまで拡大し、「連衡」の策謀を困難にさせる知恵が必要である。長期戦に耐える覚悟も要る。歴史から学べることは多い。