宋王朝滅亡の歴史から学ぶ中国の対米強硬策

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顧問・元ベトナム・ベルギー国駐箚特命全権大使 坂場三男

 米中貿易戦争が抜き差しならない状況に立ち至りつつある。安全保障をめぐる南シナ海や台湾海峡での米中角逐からも目が離せない。トランプ政権が中国に圧力を加える時、中国人が見せる硬軟両様の反応は外交的に慎重に分析される必要がある。習近平指導部は明らかに過去の歴史から多くを学んでおり、中国人民の感情も歴史を鏡として表出する。
 中国には大国に圧力を加えられ、これへの対応を誤ったために王朝が滅びた歴史がある。900年前に北方に勃興した女真族の金に滅ぼされた宋王朝の悲劇である。漢民族の宋王朝は文知主義の国であり、文官優位で武人が冷遇された。脅威を増す異民族には金品を贈り、戦いを忌避した。宋王朝は江南の開発が進んだことで財政が豊かであり、文化も栄えた。「水滸伝」を読むまでもなく、官僚・宦官の汚職腐敗も極まった時代である。
 当時、宋の北には契丹族の遼という国があり、燕雲十六州と呼ばれた北東部一帯を占有されていた。この奪還が宋王朝の悲願とされたが、実際のところは、奪還はおろか巨額の金品を代価に南下を防ぐのが精いっぱいであった。そこで、知恵者が皇帝に進言したのは「夷を以って夷を制する」策で、遼のさらに北に台頭しつつあった女真族を焚き付けて北から遼を牽制しようとした。ところが、この女真族の中に完顔阿骨打という英雄が現れ、金という統一国家を創って遼を滅ぼし、却って宋王朝の一大脅威になってしまったのである。
 金からの強力な圧力を受けて宋王朝は狼狽した。都の開封にまで迫る勢いの金軍を前に文官・宦官らによる講和派と、理想主義に執着する一部文官と気骨のある軍人(軍閥)による主戦派が対立した。金軍が都に迫れば講和派が勢いを増し、盟約(宋にとって屈辱的なものだが)を結んで金軍が撤退すれば主戦派が巻き返すという迷走の繰り返し。ついに金軍の怒りが爆発して、前・現皇帝を含む皇族のほぼ全員が捕虜になって北方に連れ去られるという屈辱(靖康の変:1127年)を味わい、宋王朝は滅亡した。
 問題はこの後である。遥か南方・臨安(現在の杭州)の地に逃れて南宋という新王朝が生まれたものの、依然として金の圧力は続き、講和派と主戦派の対立は解消されない。そうした中で、失地回復のために奮戦する英雄・岳飛が登場する。岳飛は農家の出身だが武人としての才能を開花させ、金軍に連戦連勝するという大功を打ち立てた。彼は、読書人であると同時に優れた書家でもあり、人望も厚かったという。「精忠愛国の士」と評された岳飛は中国史において間違いなく5本の指に入る英雄であり、今でも中国の人々の間で絶大な人気を誇る。
 これに対して、講和派の代表が宰相の地位まで上り詰めた秦檜(しんかい)であり、皇帝を取り込んで岳飛の失脚を計り、謀反の嫌疑までかけて息子・岳雲ともども処刑してしまった。秦檜からすれば岳飛は勝ち過ぎて講和を危うくする人物と見られた。その後、秦檜は金との講和を実現(1142年)し、南宋の命脈(~1276年)を保つことに成功したが、中国史においては極悪人、売国奴の代表とされてしまった。
 私がくどくどと岳飛・秦檜の故事を語るのは、中国人の心に「大国の圧力に屈するのは悪」であり、「これに敢然と戦いを挑むのは愛国」という歴史認識を生んでいるのではないかと思うからである。米国から圧力を受ければ受けるほど中国の人々は岳飛待望論に向かい、強気で対抗する指導者を礼賛する。岳飛は日本における楠木正成を遥かに超えた存在である。
 しかし、冷静に考えれば、岳飛が金軍との個々の戦闘に勝ち続けたとしても彼我の国力の差からすれば金軍を撃退するには至らず、南宋は誕生早々に滅亡する結果を招いたのではないか。だとすれば大国・金との和議をもたらした秦檜こそ救国の士であり、現在の米中激突の構図の中で秦檜こそ待望されるべきだと思うのだが、さて習近平は岳飛になるのか秦檜になるのか。ここが中国の将来にとって1つの分かれ道になるかも知れない