最近のニュースを見聞きするにつけ「決断と行動」の難しさを考えさせられることが多い。集中豪雨で河川が氾濫する危険があるとしても、周辺住民の人命・家屋に甚大な被害が及ぶことまでは想定されないとき、最悪の事態を想定して避難行動を起こすことは可能か。何か月も前から予定され、皆が楽しみにしていた学校行事を「暑いから」という理由で取りやめる決断は出来るのか。結果論からは何とでも言えるが、それぞれの時点、場所で「やる勇気」、「やめる勇気」を発揮するのは意外と難しいのではないか。
昨年の3月、栃木県で雪山登山の訓練中に高校生が雪崩で遭難し、8名が死亡するという痛ましい事故があった。何でそんな無謀なことをしたのかとして引率教員らが刑事責任を問われる事態になっている。現場の教員らが「予定を中止する決断」をなぜ出来なかったのかを責めるのは容易だが、自分がその場にいたとしたらどうだろうか。リスクが1%ある場合、これを逆に言うと、何事も起こらない(危険が発生しない)可能性が99%あるということである。そうした状況下で「やめる勇気」を発揮しても、結果として何事も起こらなければ(その可能性が圧倒的に高い)、その決断に不満・不平を言う者は必ず出てくる。
猛暑の中、校庭で行事を行い、熱中症で死亡する子供が出た。学校関係者は当然に非難されている。結果論としては責任を問われるべき事態だが、全国を見渡せば、同じような状況下で予定通り学校行事を行い、何事もなかった事例の方が圧倒的に多いだろう。今、全国で、高校野球の地方予選が行われているが、猛暑を理由に中止したという話は聞かない。選手はもとより、応援者や観戦者の熱中症リスクは極めて高いと思う(実際、多くの熱中症患者が出ている)が、中止しないのはなぜか。試合の実施を楽しみにしている人があまりにも多いためか。あるいは、甲子園での全国大会を前に、地方大会をスケジュール通りにこなすことが優先されるためか。「やめる勇気」にも責任が問われる時、その勇気を発揮するのは難しい。
話を少し大げさにすると、国政レベルでも同じ問題がある。大規模地震・津波の危険が予知されたとして、避難者の規模が数十万人、数百万人に及ぶ時、避難命令を出せる者はいるのか。この規模で避難すれば都市は大混乱し、巨額の経済損失も出る。ここでも、リスクが1%だとしたら、知事であれ、大臣であれ、避難命令発出には二の足を踏むだろう。仮に避難命令を出して、そして何事も起こらなければ、「予知」した予報官・学者にも非難が集中するのではないか。彼らはキャリアを喪失するかも知れない。つまり、誰も「予知」しないし(「予知出来ない」という問題は別として)、大規模避難の命令も発出されない。仮に発出してもこれに従わない住民が続出するのではないか。これが現実である。
外交・安全保障の分野でも事情は異ならない。最悪の事態を想定し、それへの備えは怠るべきではないが、そうした行動を起こすことが国内の混乱と巨額の経費を伴うとなれば「やる勇気」を発揮するのは外務・防衛大臣はもとより総理大臣でも難しいのではないか。仮に、北朝鮮の核ミサイルによる首都攻撃の危険が高まったとしても、都民を大規模に避難させることは出来ないだろう。話をそこまで大きくしなくても、離島に不審者が大量に上陸したり、外国の戦闘機多数が領空を侵犯してきた時に、これに断固たる阻止行動を起こせば重大な事態になる。戦争に発展する可能性すらある。ここにも「やる勇気」、「やめる勇気」の大問題がある。
では、どうしたらよいのか。学校や各種行事の主催者、地方自治体の長から大臣・総理に至るまで、それぞれのレベルで「責任を負う覚悟」がいるということだろう。最悪の事態になる確率が1%、あるいはそれ以下だとしても、人命にかかわり、国民の生命・財産に甚大な影響が及ぶ可能性がある場合は、「責任を負う覚悟」を持ち、「やる勇気」、「やめる勇気」を発揮しなければならない。同時に、全ての関係者、国民が、結果として何事もなかった場合、あるいは(防衛行動が)重大な結果を招いたとしても、そのことで決断した者を責めない心構え(意識文化?)が必要である。「責めない勇気」も発揮しなければこの時代は乗り切れない。