幻想を捨てよう
6月12日に行われた米朝首脳会談は歴史的な会談だと当初喧伝されたが、それが幻想であったことが明らかになってきた。本稿においては、米朝首脳会談を契機として、自国の防衛力を弱体化させても北朝鮮宥和路線をひた走る文在寅政権の危うさを明らかにするとともに、我が国にとっての教訓について記述する。
●北朝鮮が得たもの
6月12日に実施された米朝首脳会談は、世界の多くの人達に朝鮮半島の未来に対する希望を抱かせた。我が国においても、普段は北朝鮮に厳しい発言をしている保守的な人たちでさえ、「北朝鮮に何か歴史的な変化が起こるのではないか」と期待する者がいた。
しかし、これらの楽観的希望は幻想だった。私は、米朝首脳会談の開催前から、「この首脳会談は政治的なショーにしか過ぎない。過去20年以上にわたり北朝鮮に騙されてきたが、同じことが繰り返されるだろう」と主張してきた。中身のない首脳会談の合意文書を読み、ドナルド・トランプ大統領の記者会見を聞くにつけ、私の考えは確信に変わった。
結局、米朝首脳会談は北朝鮮にとっての大きな勝利となり、北朝鮮が得たものは以下の諸点だと思う。
①会談前に米国が最も重要だと主張していた「完全で、検証可能で、不可逆的な非核化」(CVID: Complete Verifiable Irreversible Denuclearization)という語句を合意文書に記述させなかった。そのため、検証可能性と密接不可分な核兵器の申告などで北朝鮮の反論の余地を残してしまった。実際に、3回目の訪朝をしたマイク・ポンペイオ国務長官に対して、北朝鮮は「申告だとか検証だとか強盗のような要求ばかりした」と批判したのだ。
②北朝鮮は安全の保証を得た。これは、米国の先制攻撃の可能性が極めて低くなったことを意味し、金正恩委員長は枕を高くして寝ることができることになった。
③「北朝鮮の完全な非核化」ではなく、「朝鮮半島の完全な非核化」が盛り込まれた。この朝鮮半島の完全な非核化に関する北朝鮮の解釈は、北朝鮮の非核化のみならず、在韓米軍の撤退と米国の核の傘をなくすことを意味する。
④南北首脳会談の実施により、融和的ムードが広がり、国連の経済制裁を骨抜きにするチャンスを得た。
●核兵器を放棄しようとしない北朝鮮
6月12日から50日が経過したが、結果は私が予想したとおりになってしまった。北朝鮮は、非核化に関する具体的な行動を何もとっていないばかりか、核兵器の開発と弾道ミサイルの開発を継続しているという情報さえ出てきている。例えば、7月30日付のロイターによると、「北朝鮮が最初の大陸間弾道ミサイルを製造した平壌郊外の山陰洞(サンウムドン)にある大規模な研究施設で活動を再開している」という。
北朝鮮は核兵器を放棄しないし、弾道ミサイルを放棄することもない。それらを放棄することは自らの死を意味することだと思っているからだ。
トランプ大統領は、余りにも拙速に歴史的な成果を求めすぎた。北朝鮮と長年交渉してきた外交のプロの多くが一様に主張するように、「北朝鮮と交渉する時、解釈の余地がある文書に署名した瞬間、ゲームは事実上終わる」のだ。余りにも拙速に首脳会談を開催したこともあり、米朝の合意文書は「解釈の余地が余りにもありすぎる文書」となり、その当然の結果として、北朝鮮はその合意文書を根拠として、首脳会談後の交渉を長引かせている。
首脳会談前に米国側があれほど強調していたCVIDは、合意文書に全く盛り込まれなかったばかりか、いまやCVIDという用語さえ使うなという指示がトランプ大統領から出ていると噂されている。最近では、ポンペイオ国務長官などは、CVIDの代わりに「最終的で十分に検証された非核化」(FFVD:Final, Fully Verified Denuclearization)という語句を使っている。「完全で、不可逆的」を削除したFFVDはCVIDから明らかに後退している。
米国が当初目指した、短期の非核化はほぼ絶望的な状況だ。米韓は合同軍事演習を中止したが、北朝鮮は不必要になった核実験場の入り口を爆破しただけで、時間稼ぎをしている。非核化実務協議のためのワーキング・グループを作るという米国との基本的合意さえ守っていない。
協議が長引くほど、北朝鮮の核保有国としての地位が確定していく。我が国にとって脅威となる核兵器や短・中距離弾道ミサイルは温存される。結局、トランプ大統領が首脳会談の記者会見で大見得を切った「北朝鮮の核脅威は存在しない」という発言はフェイクだったのだ。
以上のような状況にもかかわらず、未だに「米朝首脳会談により北朝鮮の非核化が実現する」などという幻想を信じている者に対しては、「幻想は捨てて、現実を直視しなさい」と言うしかない。「幻想を捨てて、現実を直視すべき」という言葉が最も当てはまるのは韓国の文在寅大統領かも知れない。文大統領は、米朝首脳会談以降の偽りの緊張緩和を利用して、矢継ぎ早に韓国の防衛態勢を弱体化させる決定を行っている。その実態を以下に記述する。
韓国の「国防改革2.0」の諸問題
韓国の国防部は、今後の国防態勢に関する「国防改革2.0」の基本方向を文大統領に報告し、確定したと発表した。問題はその内容であり、報道されている内容をみると、「国防改革」ではなく、希望的観測に基づく「国防改悪」ではないかとさえ思えてくる。
●「攻勢的新作戦概念」の廃棄
今回の「国防改革2.0」の注目点の一つは「攻勢的新作戦概念」が削除されたことだ。「攻勢的新作戦概念」とは、「韓国軍が北朝鮮との全面的な戦争に陥った場合、韓国軍が平壌を2週間以内に占領して、短期間で戦争に勝利する」という作戦概念だ。この作戦概念は、宋永武(ソン・ヨンム)国防長官の代表的な作戦構想であり、「有事の際、『最短期間、最小の犠牲』で戦争を終結させることができ、平時には北朝鮮の挑発を抑止する効果がある」と説明してきた。
国防部が当初大統領府に提出した「国防改革2.0」には、「攻勢的新作戦概念」が盛り込まれていたが、大統領府が反対をし、最終的に「攻勢的新作戦概念」は削除されたという1 。北朝鮮との友好関係を重視する大統領府が、「韓国軍が2週間以内に平壌を占領して、短期間で戦争に勝利する」という北朝鮮が嫌う韓国軍の攻勢的な作戦構想を廃棄したのであろう。
●韓国軍の兵力削減と兵役期間の短縮
「国防改革2.0」には韓国軍の大規模な兵力削減計画が盛り込まれている。韓国軍の総兵力を現在の61万8000人から、11万8000人を削減して2022年までに50万人へ縮小するという。この11万8000人の削減は全て陸軍の削減(約24%削減)であり、陸軍は約50万人から約38万人に削減される。この削減は、文在寅政権の陸軍に対する厳しい姿勢の表れである。なお、将官定員も76人を削減(陸軍66人、海軍及び空軍はそれぞれ5人の削減)し、436人から360人に約17%削減されることになる。
陸軍の削減に連動して、5年後には最前線を守る師団数も11個師団から9個師団に減少し、各師団が担当する正面幅は現在のおよそ2倍である約40キロにまで拡大する。5年後の劇的な変化に対応ができるか否かが問われている。
韓国は徴兵制を採用しているが、その兵役期間についても短縮され、陸軍・海兵隊で21か月から18か月へ、海軍で23か月から20か月へ、空軍で24か月から22か月へ、それぞれ短縮される。ただでさえ少子化で兵力は減っていくので、兵役期間を延長して兵力を維持しなければならないところだが、逆に兵役期間を短縮するという。
一方、北朝鮮は7~10年もの長期勤務する128万人の兵力を保有している。この兵力が一挙に攻撃してきた場合、18カ月兵役の50万人の韓国軍は本当に防ぐことができるのかと、韓国の保守的メディア(朝鮮日報など)は批判している。南北間の兵力等の比較については、下図を参照してもらいたい。
図「南北間の兵力と兵役期間の比較」
出典:Chosun Online
以上のような韓国の一方的な兵力削減と兵役期間の短縮は、韓国の国防力の低下を意味し、北朝鮮に対する抑止力の低下につながるであろう。
本来任務を忘れた韓国の情報機関
●批判される国家情報院
韓国には国家情報院という情報機関が存在するが、かつて韓国中央情報部(KCIA)と呼ばれていたので日本人にもなじみの深い組織だ。国家情報院は、北朝鮮の脅威から韓国を守るために存在する第一線の情報機関で、その任務は「北朝鮮の脅威に関する動向の探知、スパイの摘発・逮捕」だ。いかなる政治的状況であろうと、北朝鮮がいかなる意図を保有し、いかなる作戦を計画しているのかを分析・評価するのが国家情報院の役割だ。ところが、最近の国家情報院は北朝鮮の脅威把握をほとんど放棄してしまっているという。
たとえ大統領が「北朝鮮は変わった」と強く主張しても、国家情報院は最後まで北朝鮮が隠している安全保障リスクを探知し、警告を発しなければならないが、その役割を果たしていないという。国家情報院長は、4月27日の南北首脳会談に同席し、その場で感激して涙を流したという。情報機関トップというよりも、南北対話のためにポストに就いているようだと批判されている。
さらに、私には信じられないが、国家情報院は、スパイ捜査権を警察に移管することを目指しているという。これは、自らの最も重要な任務を放棄するに等しい。韓国の防諜能力は確実に低下し、金正恩委員長を喜ばせるであろう。
●非武装地帯の警戒監視体制の縮小計画
さらに問題だと思われるのが、国境付近の非武装地帯における警戒監視体制を縮小する計画だ。非武装地帯に設けている監視所から兵士や兵器の撤収を行う計画があるという。これは韓国国防部が7月24日に国防委員会に提出した資料で明らかになった。
この計画は、4月に実施された南北首脳会談で発表された板門店宣言の項目である「DMZ(非武装地帯)の平和地帯化」に沿った措置だ。監視所からの撤収を試験的に実施し、その後に全面的な撤収や共同警備区域(JSA)の警備要員の縮小などの非武装化を行う計画だという。北朝鮮にとっては願ってもない状況で、手薄な国境地帯から韓国への浸透が容易になるだろう。
韓国政府による国連経済制裁骨抜きの動き
●国連で中露と共に北朝鮮に対する制裁の緩和を画策する韓国政府
韓国外交部の康京和(カン・ギョンファ)長官が20日、国連安全保障理事会のブリーフィングで、「南北朝鮮間には対北朝鮮制裁の例外が必要だ」と言及したという。康長官は、公式には「北朝鮮の非核化まで制裁は維持されなければならない」と言っているが、安保理では「韓国が北朝鮮との対話・協力を引き出すために、例外を認めてもらいたい」と文在寅政権の本音を代弁している。
一方、中国とロシアは、同日の安保理で対北朝鮮制裁の一部解除を要求したが、米国の抵抗にあい断念した。韓国は、中ロと共に対北朝鮮制裁を骨抜きにしようとしている。
●経済制裁破りを黙認する韓国政府
韓国政府は、北朝鮮産石炭の国内搬入を知りながらも処罰せず、国連制裁を破った船の入港・通過をその後も許可していた。実例を示す。北朝鮮の元山で石炭を積みロシアに向け出港し、ロシアのホルムスク港で石炭を下し、その石炭を第三国船籍の船に乗せて韓国に搬入するという例だ。これは明らかに安保理決議違反だ。
また頻繁に行われている瀬取り(北朝鮮の船に他の船を横付けすることにより石油などの船荷を移し替えること)についても韓国政府は黙認している。
北朝鮮の非核化のためには、北朝鮮に対する経済制裁は不可欠であるが、韓国政府が安保理決議違反を見逃している状況は大問題である。そして、国際社会全体から経済制裁を受けている北朝鮮に対し、やみくもな経済協力を提案することも大問題だ。
最悪の事態に備えるのが安全保障の鉄則
●韓国の国家防衛上の自殺行為を我が国の教訓とせよ
以上みてきたように、北朝鮮の非核化に関する具体的な成果が何もない状況において、北朝鮮の善意を前提として大幅な兵力削減を計画し、兵役期間を短縮し、38度線の警戒監視体制を緩めようとしている。韓国の一方的な軍事力の弱体化の動きは自殺行為と言わざるを得ない。
相手の善意や「まさか攻撃するはずはない」という思い込みに基づいて、自らの国防政策を決定することは愚かである。国家の指導者や安全保障に携わる者は、「最悪の事態を想定して、それに万全の態勢で備えること」が鉄則だ。
北朝鮮は、今なお韓国の生存を脅かす最大の危険要因であり、「偽りの平和」に酔いしれるのは危険である。
●日本の自助努力が重要
トランプ大統領は、北朝鮮の非核化が進捗していないという批判に対して、「北朝鮮は9ケ月間ロケットを発射していないし、核実験もしていない。日本はハッピーだし、アジア全体がハッピーだ」とツイートしたが、極めて不適切である。何故ならば、北朝鮮の核兵器は変化なく存在し、短・中距離弾道ミサイルも廃棄されていない。我が国にとって北朝鮮は依然として脅威である。日本にとってハッピーな状況ではなく、最悪の状況だ。トランプ大統領にとっては短・中距離弾道ミサイルは脅威ではないし、北朝鮮が喧伝するICBMでさえ完成された兵器ではなく、米国にとって脅威ではないと思っているのだ。米国にとっての脅威と日本にとっての脅威は違うという当然の事実を再認識すべきだ。
我々は今、米韓同盟の形骸化を目のあたりにしている。米韓同盟の形骸化は、トランプ大統領と文在寅大統領の両方に責任がある。つまり、北朝鮮が非核化のための行動を何もとっていないにもかかわらず、自国の防衛態勢を弱体化させている文在寅大統領の責任は重い。一方で、米朝首脳会談を11月の米国中間選挙のために政治利用し、在韓米軍の撤退を軽々に発言し、米韓合同演習を「挑発的で金がかかりすぎる」として中止するトランプ大統領にも責任がある。
日米同盟を形骸化させてはいけない。安倍晋三首相は、文在寅大統領とは比較にならないくらい同盟関係の重要性と安全保障の常識をわきまえている。一時的な緊張緩和ムードに流されることなく、北朝鮮が今まで通りに日本の脅威であり続けるということを前提とし、その脅威に対処するための我が国独自の自助努力が重要だ。
韓米同盟の形骸化の教訓は、脅威対象国の善意を前提として安全保障政策や防衛政策を決定する愚かさであり、国益に基づいて同盟関係を至当に評価し、それを強化しようとする不断の努力の大切さだ。
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1 朝鮮日報、2018年7月28日
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/07/28/2018072800431.html