令和の時代 ――野党は立ち位置を明確に

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政策提言委員・元参議院議員 筆坂秀世

 平成が終わり、令和の時代になった。平成の30年間というのは、世界でも、日本でも政治が激動した時代であった。
 世界では、平成の幕開けに合わせるように、社会主義体制が音を立てて崩れていった。1917年にロシアで社会主義革命が起こった際、その現場を取材したアメリカ人ジャーナリストのジョン・リードが執筆した有名なルポルタージュがある。その題名は『世界を揺るがした10日間』というものだった。
 その後、第二次世界大戦を通じて、ソ連は東欧諸国に社会主義体制を押し付け、世界は資本主義陣営と社会主義陣営が対決する「冷戦」に突入していった。自民党と社会党が対決する所謂「55年体制」は、この冷戦体制をそのまま日本の政治体制に引き写したものであった。自民党は資本主義陣営を代表し、社会党・共産党は社会主義体制を代表していた。
 それから70有余年、今度はソ連など社会主義体制の崩壊が世界を揺るがし、冷戦が終結した。冷戦を引き写した日本の政治体制にも、激変が起こるのは必然であった。それまでの資本主義か、社会主義か、という対決軸が喪失してしまったからだ。
 当時、「保革対決消滅」論ということが言われた。最早、保守も、革新もないということだ。事実、自民党は「共産主義勢力と闘う」という旗印を失い、社会党など左派陣営は「社会主義」という旗印を失ってしまった。
 資本主義陣営の勝利によって、それを代表していた自民党は大いに活気づくはずだったが、実際には、1993(平成5)年、細川護熙政権の誕生によって、結党以来、初めて野党に転落することになった。その後、一旦は社会党を抱き込んで政権を奪取するが、2009(平成21)年、民主党に政権を奪われ、再び下野することになる。自民党も混迷した時代だった。
 下野した自民党は、翌年、新しい党綱領を制定する。そこには、「我が党は常に進歩を目指す保守政党である」と明記されている。「保守政党」と規定したのは初めてであった。綱領というのは、その政党のアイデンティティーを示すものである。自民党は逸早くそれを確立したのだ。
 野党はどうだったか。社会党は事実上消滅した。その後結党された民主党も政権陥落後は、民進党に名前を変え、四分五裂を繰り返している。これらの政党にも綱領と名の付いた文書があるにはある。だが到底、綱領と呼べる代物ではない。共産党も、党名の由来である共産主義革命を現実的課題として語れなくなっている。現在の野党は、自らがどういう政党なのかということも定義出来ず、立ち位置も明確に出来ないまま放浪しているようなものだ。
 こんな野党が選挙での票欲しさに、共産党にまで秋波を送って共闘してもそれは野合の誹りを免れないだろう。令和の「令」は、明確な目標の確立と結びついた言葉であり、「整った美しさ」ということを意味している。野党の有り様はこれに程遠い。