7日、民進党と希望の党によって「国民民主党」が結党された。これを必ずしも両党が「合体」したとは言えないところに悲哀を感じる。「合体」と言うより、寧ろ「ばらばら」になったからだ。両党議員の「行き先一覧」と報じた新聞もあった。国語辞典では、「民主」の意味について「その国の主権が国民にあること」と説明されている。いきなり意味がダブっているのだ。まあ誰も関心を持っていないのでどうでもいいのだが。
その野党が長い間の審議拒否から、漸く復帰することになった。復帰に当たって立憲民主党の辻元清美国対委員長が、「5月を疑惑追及月間にする」と語ったのには、腰を抜かしそうになった。昔からスキャンダル追及は、支持率の上昇には繋がらないことを知らないのだ。
1976年2月に、戦後最大と言ってよいロッキード疑獄事件が発覚した。アメリカの航空機メーカーであるロッキード社が、日本への航空機売り込みに絡んで首相だった田中角栄に巨額の賄賂を贈ったとされる事件である。国会では、大手商社の丸紅や全日空の関係者、田中角栄と「刎頸(ふんけい)の交わり」(二人は互いのために首を刎(は)ねられても悔いはないとする程の関係)と述べた小佐野賢治、右翼の大物児玉誉士夫などが証人喚問された。
この疑獄事件の追及で大いに名を挙げたのが共産党であった。この時、私は共産党衆議院議員の秘書をしており、ロッキード事件追及のためのプロジェクトチームの一員として調査活動に奔走していた。共産党は数度に亘ってアメリカへの調査チームを派遣し、次々と新事実を掴み国会での追及を行なった。間違いなく、その追及は抜きん出ていた。
当時共産党は、1972年12月の総選挙で40人(革新共同、沖縄人民党を含む)の当選を果たし、公明党を抜き、野党第二党の地位を確保していた。だがロッキード事件が発覚し、元首相だった田中角栄が逮捕もされたが、その年の12月の総選挙では17議席に激減し、公明党や民社党にも抜かれ野党第四党に転落した。
国民がスキャンダル追及に関心がないわけではない。しかし、政治の本道ではないということも事実なのだ。国民は政治家に、ただただ清廉潔白だけを求めているのではない。自分達の為に何をしてくれるのか、その力があるのかを見ているのだ。田中角栄が刑事被告人になっても当選し続けたのは、それだけの力があると見られていたからだ。
審議拒否がいつでも駄目だとは言わないが、決して賢い戦術ではない。「55年体制」と言われた自民党と社会党が対峙している時代には、よく審議拒否が行なわれた。審議拒否は、野党が与党に激しく対峙しているかのように見えるからだ。その実、水面下では手を握り、金品も動いていた。審議拒否は、馴れ合い政治の産物だったのだ。
こんな手垢に塗れた戦術しかとれないところに、野党の悲惨さがある。