『佐野学著作集を読んで』
―「転向」したのはどっちか―

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政策提言委員・元参議院議員 筆坂秀世

 昨年の秋頃に、長野俊郎氏から『佐野学著作集』全5巻が贈られてきた。佐野学といっても殆どの人が何者か知らないだろう。戦前、日本共産党が非合法政党だった時代に、最高指導部の一員だった人物である。今、この著作集を読み進めている。
 佐野学は、あの後藤新平の女婿、佐野彪太の弟であり、東大法学部卒業後、後藤の伝手で満鉄の嘱託社員となっていたが、荒畑寒村(日本共産党創立時のメンバー)の誘いにより共産党に入党している。その後1929(昭和4)年に上海で逮捕され、32(昭和7)に治安維持法違反で無期懲役の判決を受け、入獄する。翌年、一緒に入獄していた鍋山貞親と共に、「共同被告同士に告ぐる書」を発表し、共産党を離党する。
 当時、これは「転向声明」として大反響を呼んだ。『日本共産党の60年』(同党中央委員会出版局発行)は、「党の最高指導部の一員であった佐野、鍋山らの裏切りは、…ジャーナリズムの政治的大宣伝にたすけられて、党の内外に敗北主義の気分や潮流を大きくうみだす契機となった」と述べているように、その後、多数の幹部の転向、党員の離党を生み出していった。共産党に大打撃を与えた「転向声明」であったことは疑いない。
 共産党史の中では、佐野は最大の裏切り者とされてきたが、著作集を読んでみると佐野の言説は決して間違ったものではないことが分かる。
 佐野は、世界の共産党の指導部であったソ連主導のコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導を厳しく批判している。当時、日本共産党というのは、コミンテルンの日本支部であった。資金も、戦術も、全てがコミンテルン頼りであった。当時の綱領的文書を見てみると、日本共産党の第一の任務は、ソ連を擁護することと、中国革命の成功に貢献することであった。一体どこの国の共産党かと言わざるを得ない。
 もう一つが「帝国主義戦争を内乱へ」というものであった。これについても佐野は、「実際にやったものは一人もない」と明言している。それはそうだろう。内乱どころか、共産党自身が壊滅していたのだから。こういう状況下でコミンテルンの指導から離れて、日本独自の社会主義の道、天皇制社会主義を探求すべきだというのが、佐野の主張であった。
 現在の日本共産党はどうだろうか。かつては「労働者の祖国」と言って讃えた旧ソ連を「社会主義ではなかった」などと苦しい言い訳をしている。中国も、ベトナムも、キューバも、全て「社会主義に未だ到達していない」のだともいう。そして日本独自の社会主義の道を探求するのだという。現憲法を維持し、天皇制とも共存できると説明している。かつての佐野の主張と酷似している。佐野は、最後まで社会主義の旗を捨てなかった。だが現在の共産党は、社会主義は22世紀の課題だという。これでは捨て去ったも同然だ。転向したのは、日本共産党なのだ。