台湾の6月は驚くほど蒸し暑い。北回帰線の上空から熱線を直射するように照りつける強烈な太陽、それでいて雨にたたられる日も多い。この季節は当然ながら外国人観光客も減少する。しかし、私は敢えてこの時期を選んで台北―高雄―台南への3泊4日の旅を敢行した。かつて瘴癘の地とされた南国熱帯の島「高砂国」を体感したいがためである。
台湾を訪れるのは初めてである。外務省に40年以上奉職したが、日本と外交関係のない台湾の地を踏む機会はなかった。九州ほどの大きさの島に2300万人以上の人が住み、立派に経済を発展させているが、「中国の一部」という政治的呪縛によって外交的には「国」として存在していない。しかも、日本にとっては、太平洋戦争終結までの50年間、この地を植民地化し、日本人同胞としての契りを結びながら、今では(少なくとも政治・外交的には)他人のようなそらぞらしい関係にある。多くの日本人が台湾に寄せる思いは、過去の歴史に絡む苦い感情と特別の親近感であろうか。私は台北や台南の街を歩き台湾総督府時代の建造物や神社仏閣に出くわす度に、そこここを隊列行進する軍服姿の日本人の幽鬼を見る思いがした。
1895年、日清戦争後の下関条約で日本に割譲された台湾は、当時の清朝政府にとっては謂わば「化外の地」だったという。文化の及ばざる未開の地という意である。割譲された側の明治日本にとっては気が遠くなるほどの大きな課題を背負い込んだ。自国の開発すらこれからという時に「化外の地」にどう向き合うのか。一方で、当の台湾人の側も本土から何の相談もなく突然に見捨てられたようなもので、その心境は甚だ複雑であったろうと推察される。
日本入植の初期は反日蜂起が絶えなかったようだが、むべなるかなと言わざるを得ない。ただ、明治日本の痛快なところは、この未開の地の開発・近代化に自国に対する以上の情熱を傾けたことではないか。歴代総督の中でも特に第4代児玉源太郎(後に日露戦争で勇名を馳せる)の時代は民政局長に後藤新平を起用して台湾の経済発展・財政自立の基礎を築くことに成功した。新渡戸稲造が殖産局長として製糖業の育成・発展に活躍したのもこの時期である。とにかく戦前の日本は台湾統治のために選りすぐりの人材を派遣し続けた。才能ある者は台湾をまるで「実験場」のように行政・司法からインフラ整備、農業・産業の分野に至るまでその溢れる能力を開花させた。今なお台湾で日本統治時代を評価する声があるのは彼ら先人の奮闘の賜物に他ならない。