西安事件について

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政策提言委員・高知大学名誉教授 福地 惇

Ⅰ「田中上奏文」という怪文書
 昭和初年に田中義一首相が天皇に密かに上奏した日本のアジア大陸侵略計画文書だとされた「田中上奏文」とは一体何だったか。この「怪文書」だが、そこには日本の天皇制軍国主義者は、先ずシナ大陸を征服し、ついで世界征服に及ぼうとの大野望を「共同謀議」したかの如く書かれている。
 換言すると、後年の歴史の事実から判断して、これは支那事変から大東亜戦争(日支戦争プラス日米戦争)への戦争拡大を日本が計画していた重要な証拠だとなる訳である。この怪文書がシナ大陸主要都市や米英諸国に流布され注目されたのは、田中義一内閣が退陣して浜口雄幸民政党内閣が登場して日支親善・対支融和の第二次幣原外交が動き出した昭和4、5年のことで、丁度その時期にはシナ国民党が「革命外交」を高唱し始めて、我が方に対する条約違反やら約束無視の横暴外交を意図的に展開し始めた頃合である。
 だが慎重に分析すれば、支那が自分の頭で考えて「革命外交」に打って出たのではない。それは東アジアの征服を目指す勢力が、自己の野望を達成する手段として、「日支激突を誘導」し、日本をシナ大陸の混迷に無理矢理引きずり込んで、双方を疲弊させ、最後は「漁夫の利」を得るための秘密計画の一環であったと見えるのである。もう少し言えば、日本とシナとを共々に共産化させる大計画なのであった。大東亜戦争の大敗北で勝者の裁きに直面した時、勝利者が東京裁判の起訴状として提示したのが、先ずこの怪文書「田中上奏文」だった。だが、余りにも事実との相違が多く、さすがに証拠とは見做せず、密かに退けられた。しかし、この事実から読み取れるのは、「本物の侵略勢力」は犠牲の山羊を「侵略者」に摩り替える長期工作を展開していたという事実である。

Ⅱ 東アジア攪乱秘密計画の進行
 そこで、その長期工作の概略を記しておこう。1917(大正6)年6月、フリーメーソン首脳会議(於パリ)は、日本をシナ大陸から締め出すとことを決議した(黒岩重治『ユダヤ政策の方向』8頁)。同月、孫文が広東軍政府を樹立、シナ大陸は南北二政権時代に突入した。10月には早速南北内戦が始まった。そして、欧州大戦の最中の1915(大正4)年1月、米国大統領ウッドロー・ウィルソンは世界を二つに分類して見せた。彼は「新しい平和」を標榜して大統領になった男だ。世界は平和と自由を求める「道徳の国」と、抑圧と戦争を好むドイツ等に代表される「邪悪な国」の二つに区分けできると言うのである。