日韓関係の「歪み」を正す奥茂治氏の闘い
―出国禁止・韓国からの報告―

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経済学博士・評論家 篠原 章

1.謝罪碑書き換えの経緯
 朝日新聞による従軍慰安婦虚偽報道の発信源となった故・吉田清治氏が韓国内に設置した「謝罪碑」を「慰霊碑」に書き換えた奥茂治(おく・しげはる)氏が、韓国から出国禁止措置を受けたのは今年6月のことだ。身柄を拘束されている訳ではないが、出国禁止措置は、既に足かけ3ヵ月に及んでいる。
 問題となっている謝罪碑は1983年12月、吉田氏が自著の印税を元手に韓国・忠清南道(チュンチョンナムド)の天安(チョナン)市にある国立墓地「望郷の丘」内に建立したものだ。
 吉田氏は、1977年に出版された最初の著書『朝鮮人慰安婦と日本人:下関元労報動員部長の手記』(新人物往来社)で、下関から朝鮮半島に出張して男子労働者の「狩り出し」を行った様子を記しているが、慰安婦の強制連行に関する虚偽の発信を始めたのは、1982年になってからのことである。
 1982年9月2日、朝日新聞は、前日の1日に大阪市の浪速解放会館で開催された「旧日本軍の侵略を考える市民集会」(反安保府民共闘会議主催)に招かれた吉田氏が、「済州島における慰安婦狩り出しの実態」という演題の下に講演したことを伝えた(2014年に取り消し)。
 記事によれば、「1942年から45年にかけて十数回に亘り、朝鮮半島で朝鮮人約6千人( うち 慰安婦950人) を強制連行した」、「朝鮮人慰安婦を女子挺身隊という名目で戦線に送り出した」、「1943年に済州島で200人の若い朝鮮人女性を狩り出した」といった内容の講演だったという。
 1983年7月、吉田氏は2番目の著作『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』を三一書房から刊行する。そこには、済州島で兵士10人の支援を得て計205人の女性を強制連行する様子が事細かに描かれていた。とりわけ「城山浦の貝ボタン工場」での連行を描写した箇所は生々しく、「従軍慰安婦問題」に火を点けることになった。同書の印税が、謝罪碑の建立の元手といわれているが、朝日新聞は、1983年12月に、ご丁寧にも謝罪碑建立に関する記事を2日間に亘って掲載している。12月24日付け朝刊には、謝罪碑除幕式の席で、吉田氏が関係者に土下座して謝罪する写真まで公開されていた。
 「済州島における従軍慰安婦の強制連行」は、その後、近現代史家・秦郁彦氏などの丹念な研究によって虚偽であることが立証され、吉田氏本人もフィクションであることを事実上認めた。しかしながら、吉田氏の著書や言動が、少なくとも18件に上る朝日新聞の虚偽報道、クマラスワミ報告(国連人権委員会・1996年)やマクドゥーガル報告(国連人権小委員会・1998年)の採択、米下院による対日非難決議(2007年)、韓国や中国から発せられるその他様々な対日非難において、「日本政府による従軍慰安婦の強制連行の明白な証拠」とされてきたことは疑いなく、目下進行中の「少女像」(慰安婦像)設置運動の動機を構成する重要な一要素にもなっている。