シナ大陸の泥沼戦争に 日本軍を誘導したのは何者だ!

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政策提言委員・高知大学名誉教授 福地 惇

Ⅰ  我が国を悩まし続ける「歴史戦」の仕掛け人たちの淵源を探る
A  自己正当化の物語
 本講座で筆者が強調してきた戦争史理解を簡明に纏めれば次の通りである。理想と正義のアメリカ合衆国が邪悪な日本軍国主義者を懲らしめたという「太平洋戦争史観」と、半封建的軍国主義的天皇制国家は本質的に侵略戦争を好み、近隣諸国に甚大な被害を及ぼしたという「コミンテルン史観」がミックスされた、日本民族を永久に貶めるため創作された政治的歴史物語であるということになる。
 前者は敗戦直後にアメリカ占領軍に押し付けられた史観であり、後者は既に早く大正時代から昭和初年、コミンテルン等外国勢力が我が国に上手に養成した所謂「インテリ」なる反日知識人・活動家が蔓延した時期に既に成立して公表していた史観である。敗戦後は、「社共勢力」や「進歩的文化人」らが、学界や有力メディアと共謀し、大学や教育機関を占拠してこの両史観を混合して日本の歴史と文化を解体する論理として熱心に喧伝したのである。
 戦後およそ60有余年の長きに亙り、所謂「保守系政党」が政権を担当したが、社共勢力(左翼)が国会に3分の1程度の勢力を維持して、あの恥ずべき戦争を深く反省し邪悪な侵略戦争だったと公認せよと歴代政権に種々の手段を用いて執拗に迫り続けた。歴代首相、政権幹部たちは、それは後年の歴史家によって冷静な判断が下された時に決まるもので、政治家が安易に答える筋のものではないと真っ当な対応をして脅迫を退けていた。
 然るに、占領軍に下賜された憲法と教育基本法を護持し続けた「保守系政党」が、日本人自らの歴史観を構築できずにまごまごしている内に、言論と教育機関を抑えた反日左翼勢力の作戦は徐々に成果を上げ始め、昭和末年から平成年間に入った頃から、「侵略戦争で平和を愛する諸国民に重大な被害を及ぼして御免なさい」という歴史観が「政府見解」として固められてしまった。
 尚、侵略戦争を認める代表例は、1995(平成7)年の終戦の日に表明された「村山戦後50年談話」のように言われるが、実はその根は深い。既に中華人民共和国成立当初(1949年10月)から日本の左翼と共謀した中共の「対日解放謀略」が継続していて、1972(昭和47)年9月の「日中共同宣言」で「政府見解」への芽は吹き出し、10年後の教科書誤報事件で事態は深刻化し、中曽根康弘首相は社共から執拗に攻められて「侵略戦争肯定」を衆議院予算委員会の場で答弁させられた(1985年10月)。「村山談話」はそれから丁度10年後だから、その10年間は反日左翼主導の流れの「政府見解」の更なる強化過程だったのである。