江戸時代の最末期に、徳川15代将軍の名代としてパリ万博に派遣された徳川昭武(慶喜の実弟)がベルギーを重要な国として訪れている。慶応3年(1867年)8月のことで、名代である昭武は満14歳の未だあどけなさの残る少年であった。当時のベルギー第二代国王レオポルド二世は32歳で、「東洋の貴公子」に対して格別な好意を寄せたという。昭武は滞在中の9月初め、ベルギー軍2500人ほどの演習を視察し、終わって、乗馬で閲兵した。その時の様子について、「徳川昭武」(中公新書)の著者である須見裕氏は「当日は華やかな陣羽織太刀姿で臨場、馬上凛々しく閲兵を行った。この天晴な武者姿に、兵士はもとより観衆も感嘆の声をあげたという。」と書いている。この話を知った司馬遼太郎氏はその著「街道をゆく35 オランダ紀行」の中で「少年ながら、日本武士の戦場での装束姿を、19世紀のベルギー人の網膜にとどめたただひとりの人といっていい。」と感慨を込めた文章を残している。昭武のベルギー訪問は大政奉還の僅か1ヵ月前の出来事である。
この前後に日本が辿った歴史は正に「大動乱」と呼ぶべきものだった。世界史を見てもこの時の日本ほど短期間に国の姿が根本的に激変した政治事変はない。現代と違って通信手段が乏しかった150年前、世界の人々は「幕末・明治維新」をどう見たのかを各種の文献を参考にしつつ以下に概観してみたい。(尚、本稿では、紙幅の関係もあって、「海のむこう」を米欧諸国に限定しており、それ自体が大きなテーマである朝鮮半島や中国などのアジア諸国に対して明治維新が及ぼした影響への考察を割愛せざるを得なかった。これは別稿に譲りたい。)
明治維新の国際的な衝撃
19世紀のアジアは深い眠りから目覚めず、欧米の帝国主義はこれを次々と餌食にした。インドや東南アジアの国々が植民地化され、中国も1842年のアヘン戦争を皮切りに沿岸各地が「租借」という名のもとに虫に食われる葉の如くに浸食されていった。朝鮮半島でも英国やフランスが開国を迫り、1866年にはフランス艦隊が江華島に武力攻撃を加えた。他方、北方のロシアは南下政策を推し進め、西アジアや南アジアで英国と衝突、極東ではラクスマンの根室来航(1792年)に続き、1804年にはレザノフを、また1853年にはプチャーチンをそれぞれ長崎に派遣して日本に圧力を加え始めている。
こうした中で、1853年に米国のペリー提督が浦賀に来航したのである。ペリーは江戸湾に入って武力行使の可能性まで匂わせて徳川幕府に開国を迫り、翌年に和親条約の締結に成功した。更にその4年後にはタウンゼント・ハリス領事の下で修好通商航海条約を結んでいる。