明治150年
世界と日本の「動き」に“横串”を入れると違った「歴史」が見える

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政策提言委員・元陸自東北方面総監 宗像久男

はじめに
 筆者は、現在、公益社団法人自衛隊家族会の防衛情報紙「おやばと」紙上に、毎月1回のシリーズで「我が国の歴史を振り返る」を執筆中である。欧州諸国が我が国に初めて到着した16世紀半ばから始まった本シリーズは、3月現在、18回目を迎え、やっと「日清戦争」を終え、これから「日露戦争」を振り返る所まで来た。
 本シリーズは、昨今の「歴史認識」とか「歴史戦」が賑やかな中、「日本の動き」と欧米諸国や周辺諸国など「世界の動き」の相互作用に重点を置いて「我が国の歴史」を振り返り、何故我が国が江戸、明治、大正時代を経て激動の昭和時代を経験せざるを得なかったのか、などについて読者と共に考えてみようと思ったのがきっかけである。
 筆者は、恥ずかしながら、かつては歴史にあまり興味がなった。その筆者が「我が国の歴史」に殊更関心を持つようになったのは、米国の女性ジャーナリストのヘレン・ミアーズが1948年に書き上げ、「侵略したのはアメリカであり、アメリカに日本を裁く資格はない」と批判した『アメリカの鏡:日本』を読んだのがきっかけだった。
 当時、もし日本国民に読まれていたら、マッカーサーの日本統治は崩壊していただろうと言われる本書は、マッカーサーによって発売禁止・翻訳禁止の烙印を押されたが1995年に漸く翻訳されて読むことができた。本書から受けたショックを今でも鮮明に覚えている。
 これがきっかけとなり、学んできた「歴史」に疑問を持ちつつ「歴史」を逆算して、終戦後の占領政策、大東亜戦争、昭和初期、大正、明治、江戸、そして戦国時代まで歴史を遡って自学研鑽するようになった。よく「歴史にif はない」と言われるが、「if」の連続だった。
 手当たり次第に書籍を読みあさっているうちに、“様々な視点で書かれた”「歴史」に出合った。
 歴史学者の岡田英弘氏は、「歴史は物語であり、文学である。歴史は1 回しか起こらない。くりかえし実験できないので科学の対象にならない」として「それを観察する人がどこにいるのかの問題である」(原文のママ)と指摘するように、「歴史」の見方は、「立つ位置」により全く違ってくることが分かった。
 更に、学校の課目が「日本史」と「世界史」に分けられ、「日本と動き」と「世界の動き」を別々に教えていることこそが問題であると気が付いた。このような認識のもと、日本史と世界史の間に“横串” を入れることを重視したのだった。
 思いがけずも、この「我が国の歴史を振り返る」が「日本戦略研究フォーラム」事務局長長野さんの眼に止まり、執筆の依頼を受けた。まだシリーズの途上であり、稚拙をお断りした上で執筆を受諾した。