牡丹社事件とその後
明治改元から150周年に当る今年1月、NHKは幕末維新の英雄・西郷隆盛の波乱の生涯を描いた大河ドラマ「西せご郷どん」の放送を開始した。NHK大河ドラマは台湾でも人気がある。特に第13代将軍の徳川家定の御台所となり激動の幕末を生き延びた天璋院篤姫を主人公とする「篤姫」(2008 年1 月~12 月放送)は台湾でも大きな話題となり、これがきっかけで明治維新に関心を寄せた台湾人も少なくないだろう。しかし、その明治維新が台湾の近代化にも繋がっていることを理解している人はどれだけいるのだろうか。台湾人は勿論、日本人でも知っているは、そう多くはないだろう。
明治政府は日清戦争(1894ー95)での勝利に伴い清国政府から割譲した台湾を日本の新しい領土とした。しかし、明治政府が台湾と最初に関わったのは実はそれより20余年も前の「台湾出兵」の時である。1871年10月、台風による暴風で琉球王国の宮古島住民66人が台湾南部の牡丹社に漂着し、当地の先住民に救助を求めるも、意思疎通が図れなかったため、うち54人が彼らに殺害されるという所謂「牡丹社事件」が起こった。
その2年後、明治政府は外交ルートを通じて清国政府に対し、この責任を問うも、清国政府は「化外の民」が引き起こした事件であり、自分たちには無関係であると、これを突っ撥ねたため、ならば討伐すべしとして日本は1875年5月、陸軍中将の西郷従道の指揮の下、台湾出兵の挙に出た。これが近代日本最初の海外派兵であった。
確かに当時、清国政府が有効統治していたのは、台湾西部の平野と宜蘭地域のみだった。台湾は鄭氏政権消滅後の1684年頃から清国に組み入れられたが、実際には台湾の先住民を自国民とせず、しかも「番界」、即ち中国大陸から台湾にやってきた漢人の生活域と先住民と生活域を別々に設け、双方の接触を禁止した。事件が起こった牡丹社は確かに清国の版図には入っていなかった。
ところが、この事件を契機に清国政府は方針転換し、漸く本格的な台湾経営に乗り出す。洋務派官僚・沈葆楨を「欽差弁理台湾等処海防兼理各国事務大臣」に命じ、台湾に派遣し、フランス人技師・ベルトーの協力により台湾を防衛するための「億載金城」と称される稜堡式要塞「二鯤鯓砲台」を台南安平に築造した。
しかし、清国政府が台湾経営に本腰を入れたのは台湾を福建省の管轄から独立した「省」に昇格させてからのことである。台湾は清国政府の支配下に入ってから200年も経った1885年10月、「福建台湾省」(後に「台湾省」と改称)とし、劉銘傳を初代巡撫として送り込む。劉銘傳は台湾における行政区画を再編成し、台湾初の人口調査と土地調査を行った。