はじめに
明治150年特集となる本号において、本稿では日本の近代海軍建設について論じる。その中でも注目したいのが、江戸幕府が諸藩に先駆けて創設した海軍組織、所謂、幕府海軍である。幕藩制国家の桎梏の中、成功と挫折を繰り返した幕府海軍13年の航跡は近代日本の産みの苦しみと重なる。海軍という未知なる軍事力を目の当たりにした日本人は、これをどう理解し、創り上げていったのか、そしてそれは明治海軍にどう引き継がれていったのか、これから見ていきたい。
四方を海に囲まれた日本では、古代より人々の暮らしに海が重要な役割を果たしてきた。中世に入ると海賊衆と呼ばれる集団が成立し、小型・高機動の船舶を操って商業、軍事、海賊の諸活動に活躍するようになる。彼らの動向は12世紀末の源平合戦、1555年の厳島の戦いのように、時に武士団や戦国大名の興亡を左右した。戦国時代に入ると大名達は海賊衆の自陣営取り込みに腐心し、やがて海賊衆は大名の海上軍事を担う水軍へと再編されていった。
1603年に徳川家康が江戸幕府を開くと、水軍は幕府の軍事編成に倣い全国的に船手と称されるようになる。1615年の大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、日本に太平の世が訪れると(元和偃武)、船手の職務は水上警察へと変容していく。こうして日本が海上軍事力を低下させていた状況で経験したのが、19世紀の所謂「西洋の衝撃」である。
1「 西洋の衝撃」と海軍の創設
「西洋の衝撃(Western Impact)」とは、19世紀半ば以降、西洋諸国の圧倒的な政治力・経済力・軍事力が東アジア諸国の近代化を促したとする学説であり、今日では東アジア諸国の内発的な発展を軽視した見方であるという批判もあるが、日本の近代海軍建設を検討する上では、現在でも有効な概念となる。
18世紀末以降、度重なる外国船の来航に対応するように、日本の沿岸防備に関する議論(=海防論)が盛んになってくる。文字通り海岸防御を論じる海防論が主眼としたのは陸上砲台(=台場)の整備だが、こうした海防論の中から洋式軍艦の導入を軸とする海軍建設の主張が盛んになってくるのが1850年代である。1853年のペリー来航直後、当時無役の旗本だった勝海舟は、幕府へ提出した海防建白書の中で、外国との貿易で得られる利益を海軍建設費に充て、導入する洋式軍艦をその海運事業に従事させるべきであると主張し、自身の登用のきっかけを作る。