日韓併合期の印象
定年を過ぎて数年になるが、一つだけ授業をもっている。映像作品を通して韓国の社会や日韓関係を学ぶという授業がそれで、近年は日韓併合期(1910~45)をテーマにすることが多い。
前期の授業が終わるころ、受講生たちに日韓併合期の印象がどのように変わったかを訊いてみる。すると、多くの学生がこの授業をとる前には日本が朝鮮を過酷に支配し、朝鮮人を苦しめていたのだと考えていたが、それが偏った見方であることに気がついたという。
映像を使っての授業と記したが、実は日韓併合期をテーマにした映像作品で学生たちに見せたいと思う作品は少ない。映像作品だけではない。「植民地時代」とか「日帝時代」と言われるこの時代を扱った作品が繰り返し語るのは「抑圧と抵抗」の物語で、そんな作品にばかり触れていると知的好奇心が萎えてくる。
だから移民や難民をテーマにした欧米のドキュメンタリー作品を使ったりもするが、本来であれば、学生たちにあの時代に朝鮮について書かれた作品の1冊でも読んでもらいたいところである。そうすればあの時代の空気に触れることができるはずだが、実はあの時代に刊行されて今でも生きている本で、文学関係以外の本がほとんどない。例えば、安倍能成(あべ よししげ)には『青丘雑記』(岩波書店)と『槿域抄』(斎藤書店)という2冊の随筆集があって、これは是非とも教材にしたいような作品だ。京城帝国大学教授として15年間をかの地で過ごした安部は京城の街をよく歩き、自然や人間や文化をよく観察し、良い随筆を残した人だ。
しかしこれらの本は絶版になったままで、手にするのが難しい。そこで考えたのはあの時代に日本人や朝鮮人によって書かれた良質のエッセイを集めて何冊かのアンソロジーを刊行するというアイデアで、いくつかの出版社に掛け合ったが、辛うじて出してもらったのが『日韓併合期ベストエッセイ集』(ちくま文庫、2015年)1冊である。
学生たちが日韓併合期についての認識を改めるのは、感想文を書くためにこの本に触れたときで、日本人と朝鮮人との間に友情や協力があったことや、この時代の朝鮮人の生活や意識には彼らが考えていたよりは遥かに多様性があったことを知る。朝鮮人よりは日本人の作品が多いが、金素雲(キム ソウン)や任文桓(イム ムナン)といった朝鮮人の作品には固定観念をぶち破る力があるらしい。
ということで「抑圧と抵抗」の日本統治論に対抗する筆者の試みは緒に就いたばかりであり、筆者自身の日韓併合期論も完成までに時間がかかりそうである。